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田中利典師の「齢(よわい)を重ねる」ということ

2023年06月24日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「齢を重ねること」(師のブログ 2012.4.13 付)。この年、利典師は57歳。会社員でも迷いの多い年頃だが、修行を積んだ偉いお坊さんでも、迷うのだ。師にしては珍しい。
※トップ写真は、吉野山の桜(3/31撮影)

2歳年上の私の57歳は、奈良まほろばソムリエに合格した年(2010年)で、平城宮跡でボランティアガイドなどをしながら、漠然と定年後のことなどを考えていた。まさか、わずか1年後に「奈良まほろばソムリエの会」を立ち上げ、それが今のメインの仕事になるなど、夢にも思っていなかった。

師は〈自分に問う…「僕の欲しかったものは何ですか?」…それは立ち尽くす日々である。いや答えは死ぬまで出ないのかもしれない〉。ボブ・ディランなら「答えは、風の中で舞っている」と歌うところか。いや、茶化してはいけない。以下に記事全文を紹介する。

齢を重ねること
齢を重ねるとは、欲しいものを諦めることだとしたら、それは詮(せん)ないことだ。でも、大方の人はそうやって老いていくのかもしれない。そう、私もきっといつかそうなるのだろう…。だからこそ今はまだ、力の限り、欲しいものを手にしようとあがいていたい。それがいかに愚かしくみえようと、疎ましくみえようと。

もちろんこの世のことは仮の世界の出来事。執着するべきものはなにもない、と仏教は説いている。そう…私もそれを学んで僧侶となったのだから、私は間違いなく、堕落の僧である。が、私がさせていただける何かがあるとするなら、堕落の僧としてあるがままに生きて、末法具現の僧のままそれでもなお、人の心に何かを伝えること…。

幸いわたしなんぞの話でも人前で話す機会を作っていただくこともあるし、ものを書かせていただくこともある。ホントにありがたい…。でも、ふと気づくと、「偉い人間なるまえに、偉そうな人間になっている」という愚かしい自分がいて、どうにもならない自分に懊悩(おうのう)もする。

基本、人が生きるということは猥雑なことだと思っている。お金、家族、名誉、職場…その全部に懊悩しながら生きている。だからといって決して、猥雑であることは悪いことではない、と私は思っている。それこそ、猥雑が生む懊悩は、生きている証しなのだ。それは単なる自己弁護ではなく、自己肯定の中でしか人は生きられないことを誰よりも大切にしたいだけ…。

自分に問う…「僕の欲しかったものは何ですか?」…それは立ち尽くす日々である。いや答えは死ぬまで出ないのかもしれない。死んでさえわからないままだろう。それでもなお、やはり欲しいものは手に入れようとする自分を諦めたくない。人間はいずれ土になる。そのときは、どうにも、こうにも、諦めざるを得ないのだから。
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