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故奥村彪生氏の『日本料理とは何か~和食文化の源流と展開~』を読む/奈良新聞「明風清音」第93回

2023年09月14日 | 明風清音(奈良新聞)
ソフトな語り口で知られ、「料理界のじいじ」と親しまれた奥村彪生氏が、特発性間質性肺炎で急逝されて、まもなく2ヵ月になる。氏の代表作は、『日本料理とは何か~和食文化の源流と展開~』である。氏を悼み、奈良新聞「明風清音」欄(2023.8.31付)に〈奥村彪生氏の「和食」論〉という小文を寄稿した。以下に全文を掲載するので、ご笑覧いただきたい。
※トップ写真は、NHKニュース(8/1付)から拝借した

奥村彪生氏の「和食」論
伝承料理研究家で、香芝市にお住まいだった奥村彪生氏が先月(2023年7月31日)、お亡くなりになった(本紙8月2日付既報)、享年85歳。私はお目にかかったことはなかったが、代表作の『日本料理とは何か』(農山漁村文化協会)は何度も読み返し、講演で内容を解説させていただいたこともある。以下本書を引用しながら、氏の持論を紹介する。

▼中国の食文化がルーツ
日本の食文化は、〈縄文晩期から明治までは中国の食文化に負う面が多くある。(中略)日本の食べごと文化の多くは中国が父で、母なる日本の大地と海(環境)、そしてそこに暮らしてきた日本人の気質と嗜好ならびに叡智で生まれ変わり、オリジナル化された〉。

〈驚くなかれ、正月に祝う雑煮や重詰め料理、七草粥(がゆ)まで中国の習俗を見習っているのである。後漢の時代から倭奴(わのなの)国と呼ばれていた弥生中期以来、中国の食文化を柔軟に受け入れ、どう改良と改造を展開しながら「改創(変創)」して日本人好みに昇華させたか。その足跡を追い、跡付けを日本で初めて試みたのが本書である〉。

▼和食は江戸時代に完成
和食(日本料理)の構成は〈雑穀も含む米飯を中心にして、シンプルな漬物と油脂をあまり伴わない副菜の型である。(中略)日本料理、料理亭の料理や寺院の精進料理ならびに家庭料理としての惣菜(そうざい)、郷土料理が成熟するのは徳川二六〇年間の鎖国時代である〉。

〈料理亭の料理は酒の肴として発達した。その構成は飯、味噌汁、漬物を主役にし、これにつける菜は刺身を中心にして、焼物や煮物、和物(あえもの)などが組み合わされた。幕末頃は逆転して、先に酒肴(しゅこう)として菜が出され、主役の飯、汁、漬物は宴会のしめとして出される〉。

▼明治以降は欧米食を模倣
日本人は〈欧米の食文化に、江戸時代に完成させた和食の手法であるひねりをかけ、どこの国にもない日本製洋食を創り、都市に普及させた。それはカレーライスやハヤシライス、チキンライス、トンカツ、メ(ミ)ンチカツ、ポテトコロッケなどである〉。

米が主食になった飛鳥時代を和食文化の第一次大革命、中国の精進料理を取り入れた室町時代を第二次大革命とするならば、〈明治・大正は第三次大革命。(中略)昭和の戦後、肉やその加工品、牛乳や油脂を摂取する欧米型の食文化を取り入れることにより、伝統型の和食に欠落していた動物性タンパク質や油脂、カルシウムが加わり、その結果として日本は長寿国になった。しかし、現在は油脂の摂取が多くなり、そのひずみが出ている〉。

▼伝統的な和食の継承を
〈和食の伝承のためにいま問題なのは、現在の若いお父さんやお母さん、若者、子どもたちが食べて育った味とその嗜好が、昔の家庭の味とはまったく異なることである〉。

その解決策は〈昔の味をそっくりそのまま伝承するのではなく、型を残して時代性を加味し、新鮮な日本型惣菜にすることである。また、新鮮な郷土食として改創することである。これをしながら、純な日本料理の味付けへと誘っていくのだ〉。

若い家族に伝統食を伝授するのは至難の業のようだが、望みはある。私はお盆の時期、久しぶりにチェーン展開する一膳飯屋に入った。そこではたくさんの家族連れが、めいめいが選んだ和の惣菜をシェアしながら食べていて、「これはいける」と直感した。

そこでは子や孫に「これ、おいしいよ」と、肉じゃがやひじき、筑前煮などを薦めていた。これなら作る手間も要らない。時間はかかるが機会を捉えて、伝統的な和食の味を受け継いでいってほしいものだ。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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