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曽爾村・屏風岩公苑のヤマザクラ(産経新聞「なら再発見」第23回)

2013年04月06日 | なら再発見(産経新聞)
今日(4/6)は午後から「花散らしの嵐」が吹き荒れそうな気配であるが、こちらの桜はまだ「蕾ふくらむ」という状態で、今年の開花は4/9(火)、満開は4/13(土)という予想なので、これで散る心配はない。それが屏風岩公苑(曽爾村)のヤマザクラである。

産経新聞奈良版・三重県版などで好評連載中の「なら再発見」、今回(4/6)の見出しは「曽爾村・屏風岩公苑のヤマザクラ 古代の恋に思いはせる」、執筆されたのはNPO法人奈良まほろばソムリエの会の辰馬真知子さんである。辰馬さんは王寺町のご出身で、現在は西宮市にお住まいである。以下の写真2点は、辰馬さんからいただいた。では、全文を紹介する。



 三重県名張市に隣接する県北東部の曽爾(そに)村。数多くの奇岩が楽しめるが、「屏風(びょうぶ)岩」(国の天然記念物)は、その代表といえる。
 火山活動で形成されたと考えられる高さ約200㍍の岩壁が約1.5㌔にわたって続く。岩壁の前に立つと、切り立った岩そのもののエネルギーを感じ、底知れぬパワーに畏怖の念さえ抱く。
 「屏風岩公苑」として整備され、県内で一番遅く見ごろを迎えるといわれる、約300本のヤマザクラの名所でもある。壮大な屏風岩を背景に咲き誇る景色は、桜の季節の最後を飾るにふさわしい。
      *   *   *
 屏風岩は、古代の悲恋物語の舞台でもある。仁徳(にんとく)天皇の弟、隼別(はやぶさわけ)皇子と雌鳥(めとり)皇女との悲恋が古事記と日本書紀に記されている。
 仁徳天皇は雌鳥皇女を妃に迎えようと弟の隼別皇子を使いに出したが、雌鳥皇女は隼別皇子の妻となることを望み、天皇の許しを得ずに2人は夫婦になる。
 それを知り、さらに謀叛(むほん)の疑いを持った天皇は2人に追っ手を放ち、殺してしまう。古事記には、2人が曽爾に至ったとき捕えられたとある。
 屏風岩とその麓(ふもと)には若宮神社が祀(まつ)られている。若宮の祭神は仁徳天皇が多いが、ここは隼別皇子だという。



隼別神社。拝殿から本殿を拝む

 近くには隼別神社も。こちらは古い社ではなく、平成2年に奈良市高畑町の寺島富郷(とみさと)さん、キヨコさん夫妻(いずれも故人)が私費で建立した。寺島夫妻は縁あって曽爾を訪れた際、古い石組みがあるのを見て、隼別皇子を祀った跡に違いないと思い、社を建てる決心をしたという。
 追っ手から逃れ曽爾の山を大急ぎで越えたとき、隼別皇子は歌った。
 「梯(はし)立の嶮(さか)しき山も我妹子(わぎもこ)と二人越ゆれば安蓆(やすむしろ)かも」(日本書紀)
 けわしい山も愛しい君と一緒であれば、安らかな蓆の上を歩いているように楽なものだ(現代語訳)。
 2人の恋はこの世では成就することはなかったが、歌に悲壮感はない。幸せだったのだろう。
      *   *   *
 隼別神社の鎮座祭で、寺島さんは「お二人の愛が、私たち現代人の中にも広く強く深く、染みとおってほしい」と述べた。
 祭神の心を表すように、境内には多くの仲むつまじい道祖神の石像も祭られている。
 屏風岩公苑は、ヤマザクラの季節が終われば、ミツバツツジや秋の紅葉も美しい。厳しい自然環境のなかでも絢爛(けんらん)たる美しさを見せる花々は、隼別皇子と雌鳥皇女から私たちへの生きる喜びを表現したメッセージのようだ。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 辰馬真知子)

屏風岩公苑については以前、奈良に住んでみましたでも紹介されていた。私は遠くから屏風岩を眺めたことはあるが、桜の時期に訪ねたことはない。いちど訪ねてみたいものである。

辰馬さん、感動のエピソードとともに素晴らしい桜を紹介していただき、有難うございました!


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