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田中利典師「吉野山と嵐山」(2)義経は「金峯山寺に参ろう!」と言った

2023年03月27日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、2016年(平成28年)11月、東京の奈良まほろば館で「吉野と嵐山の縁(えにし)」(世界遺産連続講座)という講演をされた。師はその講演録を7回に分けてFacebookに連載された(2023.2.28~3.6)。あまり知られていない貴重なお話なので、当ブログでも追っかけて紹介させていただく。
※トップ写真は吉野山ではなく、ウチの近隣公園のヤマザクラ(コロナ禍の2020.4.5に撮影)今年は桜の開花が早く、吉野山でも下千本から咲き出している。私も花見に行かなければ…。

第2回の今回、私は〈義経は「金峯山寺に参ろう!」と言った〉という見出しをつけた。兄・源頼朝に追われる身となった義経は、吉野山へ逃れた。ねらいは金峯山寺という役行者以来の宗教勢力、経済力、ネットワーク、軍備、それらのものを期待して入山したのだという。では師のFacebook(3/1付)から、全文を抜粋する。

シリーズ「吉野山と嵐山」②
著作振り返りシリーズの第7弾は、2016年11月に東京の奈良まほろば館で開催した世界遺産連続講座から「吉野と嵐山の縁(えにし)」の講演録です。吉野の歴史からひもとくので前置きが長く、なかなか本題の「吉野山と嵐山」の話に入りませんが、7回に分けてアップします。講演の雰囲気を伝えるために、あまり手を入れていませんので、饒舌ですがお許しください。ご感想をお待ちしています。

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(2)吉野の歴史を繙く 続き…
平安時代には空海さんもおいでになっています。空海さんの孫弟子である聖宝理源大師もおいでになった。宇多上皇もおいでになって、宇多上皇に伴って菅原道真公もおいでになった。あまり皆さんはご存じないでしょうが、日本で一番古い菅原道真を祀った天神さんが一体どこにあるかというと、実は吉野にあるんです。

北野天満宮よりも歴史、神歴の古い神社です。吉野に来て頂くとわたしども金峯山寺本堂蔵王堂の向かって左側に、威徳天満宮というのがあります。これは『北野縁起』よりも古い、『日蔵上人冥道記』というお話に由来する神社で、そこに出てくる菅原道真公が、神として祀られるもっとも古い形の天神さまと言われています。

由来の話はこうです。大峯山中に、笙の窟(しょうのいわや)という場所があります。ここで日蔵道賢という金峯山寺のお坊さんが参籠(さんろう)修行をしていると、前後不覚に陥って、冥土へ行ってしまいます。

その冥土に行った先で、菅原道真公の怨霊に苦しむ醍醐天皇の御霊に出会い、「どうかあなたが蘇生してあの世からこの世に戻ったら、道真公のことを祀ってくれ」と日蔵は頼まれる。

そうすることで醍醐天皇への祟りは薄れるから、というようなお申し付けを授かって日蔵は蘇生し、吉野山に天神さまをお祀りした、という縁起なのです。さきほど申しましたように道真公も宇多上皇とともに、生前、吉野においでになっています。そういうご縁もあったのでしょうか。

このように天皇さまや豪族がこぞって吉野においでになる時期がありました。最も有名なのは今から千年前、寛弘4年(西暦1007年)に、京都から藤原道長…時の関白太政大臣がお見えになった。『御堂関白記(みどうかんぱくき)』に詳しく載っていますが、42歳の時に「御嶽詣(みたけもうで)」と称して、蔵王権現にお参りになっている。さらには白河法皇も「御嶽詣」している。法皇の「熊野詣」は有名ですが、「熊野詣」に先立つ形で吉野の「御嶽詣」をなさっているのです。

西行という歌人が、吉野に、吉野の桜を愛して3年の侘び住まいをしている。ちょうど今、西行の侘び住まいをした西行庵が紅葉の見頃になっているころです。それからもう少し時代が下ると鎌倉期には、文治2年(西暦1186年)11月に、源義経が、兄の頼朝と不仲になって、頼朝に追われて全国を逃げ回るのですが、愛妾静を連れて吉野にやって来る。

今11月と言いました。『吉野千本桜』という戯曲と言いますか、歌舞伎や文楽で、後々この義経が吉野に逃げてきたことが物語に描かれるわけでありますが、歌舞伎の『吉野千本桜』通し狂言・・・これは大変長いお話ですけれども、そこで終わり方に吉野山の場というのがございます。

そこは蔵王堂の前が舞台になるのですが、その時の蔵王堂は桜満開の、赤々として大変美しい舞台が描かれます。しかし実際には、義経が来たのは旧暦の11月ですから冬なのです。桜が咲いてる時期に来たわけではないのです。しかし吉野と言えば桜ですから、桜満開の舞台なのですね。

さて、義経は吉野山には4日間しか滞在出来ません。吉野の宗徒は鎌倉方の追手を恐れて、義経に味方をしなかったのです。それで義経は、ここで静と別れて打ち退くということになります。この義経の物語はもう52回くらい、映画とかドラマになっているそうです。

その別れの時、義経は今から大峯山山上ヶ岳へ逃げるので、山上ヶ岳というのは女人禁制であるから、女の人は連れて行けないのでここで静と別れるみたいなことを描いてありますが、実は嘘でありまして、義経は山上ヶ岳方面には行っていません。静を吉野に置いて逃れるわけです。冬枯れした時期ですから、足手まといになる静は邪魔だったのでしょう。その時に静のお腹の中には赤ちゃんがいたといいます。大変悲しい話がここで行われたわけでありますね。

今から10年前に、ジャニーズの男前で、滝沢君が『義経』というNHKの大河ドラマに出ました。あの時にね、ちょっとだけ感激したことがあります。それまでの義経のいろんな物語は、兄頼朝に追われて吉野山に逃げてくるわけでありますが、吉野山へ逃げようとか、吉野へ行こうとか、大体そういう表現なんですね。ところが滝沢君はこのとき、こう言ったんです。「金峯山寺に参ろう!」と。これは実は正しいのです。

義経は確かに吉野に来たのですが、吉野山に来たのではないのです。別に花見がしたいから来たわけでもないのです。金峯山寺という、役行者以来の修験の勢力、その経済力、ネットワーク、それから、昔の寺というのは軍隊を持ってましたからね。

今NHKの大河ドラマで『軍師官兵衛』をやっていますね、あの時代に、信長・秀吉の施策によって、お寺が武装解除させられるのですが、それまではみんなお寺は軍隊持ってたんです。ですから石山本願寺が織田信長と戦うし、比叡山が焼かれるしという事件が起きる。

あの『軍師官兵衛』の時代までは、お寺はみんな軍隊持っていたからなのです。今でもイスラムは、軍隊持ってるでしょ。日本は近世の初めにお寺が武装放棄しているので、今の日本人には宗教が軍隊を持っているという感覚はないんですが、それまでは歴史では厳然として持ってたんです。今でも世界中で持ってるところは、たくさんあるわけです。

で、それまで、たぶん、特に室町時代なんていうのは、国があってないようなもので、政府もあってないような時代でしたから、それぞれが自分たちを守るためには軍隊を持っていたわけです。寺もたくさんの荘園、たくさんのものを抱えていましたから、軍隊も持っていたし、実は国が国の体を成していなかった分だけ、お寺というのが非常にその、国が持っているようなものをたくさん持っていた。

たとえば、今は大蔵省がお酒の税金取っていますけども、中世はお酒の税金って寺が取っていた。油の販売権も寺が持っていた。今となっては、国がやっていることが当たり前なことが、実は当たり前でなかった時代の方が長かったわけです。だから、当然軍隊も持っていた。武士階級はそこから生まれて来たのですからね。

吉野・金峯山寺もまた、役行者以降、寺の発展とともに中世にかけて大変大きな勢力となった。軍隊を持っていました。そういう力を頼って、実は義経はやって来たわけで、義経は吉野に来たわけではなくて、「金峯山寺に参ろう」と滝沢くんが台詞をいったのは、極めて正しいことなのです。

ただまあ、金峯山寺という名前が明治以降ほとんど誰も知らなくなったので、意味わからんな、ということで、物語では「吉野山に参ろう」ということになっているんでしょうけどもね。今でも比叡山とか高野山とかを延暦寺、金剛峯寺をさしているのと同じで、吉野山と金峯山寺という関係性があるのですけれども、そういったような歴史があるのも金峯山寺という修験の信仰を拠点とする勢力があったからということです。
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