今日は田中利典師のお誕生日、69歳、おめでとうございます!さて、今日の「田中利典師曰く」は、〈山伏の山修行〉(師のブログ 2016.8.1 付)である。師は「科研・身心変容技法の比較宗教学:大荒行シンポジウム」(2014.11.20)に登壇され、こちらはその質疑応答での師の発言である。なおこのイベントは、哲学者・宗教学者の鎌田東二さんが主宰する研究プロジェクトの一環である。
※トップ写真は、吉野山の桜(2024.4.5付)
利典師は、正式な入峯修行の前に体験してもらう「体験修行」をお考えになった。それは〈今までなら連れていってはいけないような一般の人が申し込んできて、連れていくようになって、どんどん自分たちの勝手な気持ちで入って来る人が増えてくるわけです〉。勝手な気持ちで入ってくると、危険なことが起きる。それで前段階として、このようなシステムをお考えになったということである。では、全文を紹介する。
「山伏の山修行」 田中利典著述を振り返る280801
田中利典 講演のときも申し上げましたけれども、山の修行は危険を伴うわけであります。ややもすると、いまの人たちというのは自分たちが持っている原理をそのまま山に持ち込もうとしますから、これは非常に危険なことが生まれます。
ですから、山の修行をするときは、やっぱり山の原理に自分たちが合わせるということが、まず心構えとして欠かせないわけで、自分たちの勝手で行くのなら、山伏修行ではなく、よそで勝手に行ってもらったらいい。私どもが責任を持って山の修行をしてもらう以上は、山の原理に合わせるということを、まず前提としているわけであります。そのためには、自分たちが持っている原理でないものに、まず染まるということが大事であります。
金峯山寺の体験修行は実は私がつくったシステムです。このシステムをなぜつくったかというと、蓮華入峰とか、奥駈入峰とか、正式な入峰をしたときに、今までなら連れていってはいけないような一般の人が申し込んできて、連れていくようになって、どんどん自分たちの勝手な気持ちで入って来る人が増えてくるわけです。
そうすると、山伏の修行というものを、よく理解しておかないと、危険が伴うわけであり、いまの、まして自我が増大した現代人を連れて行くのは問題がある。本当に、言い方はわるいですが、ばかみたいなやつが、いっぱい来ますからね。ですから、ばかみたいなやつが少し、まともになるような、訓練としての体験修行が必要になってくる。「もう私は歩けませんから帰ります」という人は初めから来るなという話になるわけでね。
金峯山寺は極めて親切で、その分、よく怒られる修行だと思います。 蓮華入峰に東京の有名なお寺の偉い人がおいでになったのですが、彼曰く「坊さんになってから、こんなに怒られたことはないです、というぐらい怒られた」と。それぐらい怒るんです。何で怒るかというと、怒ることによって、まあ、彼の場合は心構えができていたんですが、かたちとして、それができなかったので、たぶん叱られた。
まず自分たちが持っている原理をいったん捨てて、山の修行に入るというのは最低限の参加のルールですから。自分たちが自分たちのルールのままで歩くのなら自分たちで勝手に歩けばいいわけでね、ただし、山伏として歩く以上は、われわれのルールに従っていただくことになります。
われわれが最低限、守ってほしいというのは、先達の言うことを聞くことと、地下足袋で歩くということ。登山靴ではなく、まあわらじという時代ではないので、せめて地下足袋で、足の裏から山の力、自然の力を感じていただく。そういうことを身に染ませるために、いろいろやかましく言うわけで、そういう決められた山の原理に従ったルールの中で歩く中で、縦軸というのは個人の問題だと思います。
修験の修行を私がすごく素晴らしいと思うのは、私は山が大嫌いなので、山伏でなかったら、山なんかへは行かないわけですけれども…
鎌田東二 ほんとですか。
田中利典 ほんとですよ。大嫌い。私は修行以外で山に行ったことがない。ハイキングとかでは山に行かない人なんですよ。
何がいいかというと、大きな気持ちで来た人にも、小さな気持ちで来た人にも、それぞれに応じて何か、その行を通じて感じられるものがある。何も期待を持ってこなかった人にさえ、その行を通じてなにかしら感じてもらえるものがある。
それが、人によっては縦軸として、神を見たとか、聖なる気持ちになったとか、そういうことがあるかもしれないし、そんなところまでいかなくても、とても清浄にしていただいた程度のことかもしれないけれども、そういう、それなりのものがあるというのが山の修行のすごさだなと思います。
ただ、一番危険なのは、「私は百日歩いて、千日歩いて、人の気配が分かるようになった」とか、「神の存在が分かるようになった」とか言い出すと、それはちょっと心配なことで、病気になったんじゃないかなと思いますね。
人間というものには誰だって、そういうことはあるわけであって、ただ、修行をすると、そういうものがないといけないような気持ちなるのも人間で、そこのところに魔が入りこむ間があるわけです。そこは気を付けないといけません。
もし、そういうものがあったとしても、経験したことを軽々しく人に言うべきものでもなく、自分の中にそっと置いておいたらいいことだと思うわけです。私は、あまり縦なるものを宣伝するのはどうなのかなと思っています。それは自分の宗教的体験の世界に置いておけばいいことです。人によって大きい小さいはあっても、それなりに得られるものがあるのが山の修行のすごさではないかと私は思います。以上です。
「2014.11.20 科研・身心変容技法の比較宗教学:大荒行シンポジウム」質疑応答から転用
※トップ写真は、吉野山の桜(2024.4.5付)
利典師は、正式な入峯修行の前に体験してもらう「体験修行」をお考えになった。それは〈今までなら連れていってはいけないような一般の人が申し込んできて、連れていくようになって、どんどん自分たちの勝手な気持ちで入って来る人が増えてくるわけです〉。勝手な気持ちで入ってくると、危険なことが起きる。それで前段階として、このようなシステムをお考えになったということである。では、全文を紹介する。
「山伏の山修行」 田中利典著述を振り返る280801
田中利典 講演のときも申し上げましたけれども、山の修行は危険を伴うわけであります。ややもすると、いまの人たちというのは自分たちが持っている原理をそのまま山に持ち込もうとしますから、これは非常に危険なことが生まれます。
ですから、山の修行をするときは、やっぱり山の原理に自分たちが合わせるということが、まず心構えとして欠かせないわけで、自分たちの勝手で行くのなら、山伏修行ではなく、よそで勝手に行ってもらったらいい。私どもが責任を持って山の修行をしてもらう以上は、山の原理に合わせるということを、まず前提としているわけであります。そのためには、自分たちが持っている原理でないものに、まず染まるということが大事であります。
金峯山寺の体験修行は実は私がつくったシステムです。このシステムをなぜつくったかというと、蓮華入峰とか、奥駈入峰とか、正式な入峰をしたときに、今までなら連れていってはいけないような一般の人が申し込んできて、連れていくようになって、どんどん自分たちの勝手な気持ちで入って来る人が増えてくるわけです。
そうすると、山伏の修行というものを、よく理解しておかないと、危険が伴うわけであり、いまの、まして自我が増大した現代人を連れて行くのは問題がある。本当に、言い方はわるいですが、ばかみたいなやつが、いっぱい来ますからね。ですから、ばかみたいなやつが少し、まともになるような、訓練としての体験修行が必要になってくる。「もう私は歩けませんから帰ります」という人は初めから来るなという話になるわけでね。
金峯山寺は極めて親切で、その分、よく怒られる修行だと思います。 蓮華入峰に東京の有名なお寺の偉い人がおいでになったのですが、彼曰く「坊さんになってから、こんなに怒られたことはないです、というぐらい怒られた」と。それぐらい怒るんです。何で怒るかというと、怒ることによって、まあ、彼の場合は心構えができていたんですが、かたちとして、それができなかったので、たぶん叱られた。
まず自分たちが持っている原理をいったん捨てて、山の修行に入るというのは最低限の参加のルールですから。自分たちが自分たちのルールのままで歩くのなら自分たちで勝手に歩けばいいわけでね、ただし、山伏として歩く以上は、われわれのルールに従っていただくことになります。
われわれが最低限、守ってほしいというのは、先達の言うことを聞くことと、地下足袋で歩くということ。登山靴ではなく、まあわらじという時代ではないので、せめて地下足袋で、足の裏から山の力、自然の力を感じていただく。そういうことを身に染ませるために、いろいろやかましく言うわけで、そういう決められた山の原理に従ったルールの中で歩く中で、縦軸というのは個人の問題だと思います。
修験の修行を私がすごく素晴らしいと思うのは、私は山が大嫌いなので、山伏でなかったら、山なんかへは行かないわけですけれども…
鎌田東二 ほんとですか。
田中利典 ほんとですよ。大嫌い。私は修行以外で山に行ったことがない。ハイキングとかでは山に行かない人なんですよ。
何がいいかというと、大きな気持ちで来た人にも、小さな気持ちで来た人にも、それぞれに応じて何か、その行を通じて感じられるものがある。何も期待を持ってこなかった人にさえ、その行を通じてなにかしら感じてもらえるものがある。
それが、人によっては縦軸として、神を見たとか、聖なる気持ちになったとか、そういうことがあるかもしれないし、そんなところまでいかなくても、とても清浄にしていただいた程度のことかもしれないけれども、そういう、それなりのものがあるというのが山の修行のすごさだなと思います。
ただ、一番危険なのは、「私は百日歩いて、千日歩いて、人の気配が分かるようになった」とか、「神の存在が分かるようになった」とか言い出すと、それはちょっと心配なことで、病気になったんじゃないかなと思いますね。
人間というものには誰だって、そういうことはあるわけであって、ただ、修行をすると、そういうものがないといけないような気持ちなるのも人間で、そこのところに魔が入りこむ間があるわけです。そこは気を付けないといけません。
もし、そういうものがあったとしても、経験したことを軽々しく人に言うべきものでもなく、自分の中にそっと置いておいたらいいことだと思うわけです。私は、あまり縦なるものを宣伝するのはどうなのかなと思っています。それは自分の宗教的体験の世界に置いておけばいいことです。人によって大きい小さいはあっても、それなりに得られるものがあるのが山の修行のすごさではないかと私は思います。以上です。
「2014.11.20 科研・身心変容技法の比較宗教学:大荒行シンポジウム」質疑応答から転用
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