先月、NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員で、奈良佐保短期大学講師の小倉つき子(小倉涼眞)さんが『廃寺のみ仏は今 奈良県東部編』(京阪奈新書)を刊行された。神仏分離や寺勢の衰えで廃寺となった寺の旧仏(流出仏)約300軀の行方を追った本で、こんな本は読んだことはない。とてもスリリングで興味深い本だった。
※トップ写真は本書の報道発表(6月22日 県文化・教育記者クラブ)、中央が小倉さん
すでに当ブログでも紹介したが、昨日(2020.7.16)奈良新聞「明風清音」欄に寄稿した。昨日はちょうど小倉さんのお誕生日だったので、思わぬバースデープレゼントとなった。以下に全文を紹介しておく。
廃寺「流出仏」の行方
6月5日『国宝仏から秘仏まで~廃寺のみ仏たちは、今~奈良県東部編』(京阪奈新書)が刊行された。著者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員の小倉つき子さんで、税別950円。本書の「はじめに」には《2017年から行っていた、奈良県指定の仏像や建造物などの現状調査に参加していました。特に仏像に関心を寄せながらまわっていたのですが、山間部や僻地(へきち)で無住の寺や公民館の収蔵庫にポツンと安置されている指定仏にしばしば出合い、感慨深いものがありました》。
本書は明治初年の神仏分離や寺勢の衰えなどで廃寺となった寺からの流出仏(旧仏)約300軀(く)を調査し、そのルートなどを解明した意欲作だ。住職や管理者の話を聞き、過去の(旧)市町村史などで裏付けを取っている。類を見ない労作である。私の目に止まった箇所をかいつまんで以下に紹介する。
▼粟原寺(桜井市粟原)
粟原(おうばら)にあった格式高い寺で、跡地は「粟原寺跡」として国史跡。近くを水量の多い粟原川が流れる。江戸末期、山崩れを伴う大洪水があり、寺が流された(粟原流れ)。このとき流出した仏像が下流の寺に納められたり、寺勢が衰えて移された仏像も含めて「粟原流れ」と総称される。口伝によれば、12軀以上の仏像が興善寺(忍坂山口坐神社の神宮寺)へ、小像12軀と石仏が石位寺(桜井市忍阪)に移された。ところがその後、何軀かが比叡山延暦寺、長野市の清水寺(せいすいじ)、サンフランシスコ・アジア美術館に移されたのだという。
▼大御輪寺(桜井市三輪)
大神神社の旧神宮寺・大御輪寺(だいごりんじ)の旧仏は神仏分離により、奈良盆地の他寺院に移された。中尊の十一面観音立像は同市の聖林寺へ、右脇侍の地蔵菩薩立像は法隆寺へ、左脇侍の不動明王像は山の辺の道の玄寶庵(げんぴあん)へ。また伝日光・月光両菩薩像は奈良市の正暦寺に移されている。
この十一面観音立像について和辻哲郎は『古寺巡礼』に、路傍に転がっていたのを聖林寺の住職が見つけて自坊へ運んだと書いているが、事実ではない。本書には聖林寺が大御輪寺宛てに発行した預証文(あずかりしょうもん)の写真が載っているし私自身、三輪のご老人から「ワシの祖父さんらが大八車に乗せて運んだんや」と聞いたことがある。
▼薬音寺(山添村大字室津)
江戸期、室津村には3ヵ寺があったが、神仏分離で薬音寺だけが残された。他の寺の仏像はすべて薬音寺に集められ、本堂には19軀もの古仏が安置された(のち1軀が加わった)。本堂の扉を開けると仏像群が一斉に目に飛び込む。本書には「異なる表現の20軀もの仏像が無秩序に並んでいる。息を呑む迫力である」。同寺の仏像群のカラー写真は、本書の表紙を飾る。
▼新薬師寺(奈良市高畑町)
新薬師寺には、春日山麓・高円山麓の廃寺の旧仏が集まる。十二神将立像は同寺の南東にあった岩淵寺から移されたものだ。伝景清(かげきよ)地蔵尊立像(着衣像)は、同寺の東にあった勝願院の旧仏で、昭和58年修理と調査のためX線撮影をすると、像内から裸形像(おたま地蔵尊)が見つかった。現在裸形像は厨子に安置し、着衣像内には強化プラスチック製のレプリカを入れて芯材としている。
ごく大まかな要所だけを紹介したが、本書には類書では得られない知見がぎっしり詰まっている。ご一読をお薦めしたい。
※トップ写真は本書の報道発表(6月22日 県文化・教育記者クラブ)、中央が小倉さん
すでに当ブログでも紹介したが、昨日(2020.7.16)奈良新聞「明風清音」欄に寄稿した。昨日はちょうど小倉さんのお誕生日だったので、思わぬバースデープレゼントとなった。以下に全文を紹介しておく。
廃寺「流出仏」の行方
6月5日『国宝仏から秘仏まで~廃寺のみ仏たちは、今~奈良県東部編』(京阪奈新書)が刊行された。著者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員の小倉つき子さんで、税別950円。本書の「はじめに」には《2017年から行っていた、奈良県指定の仏像や建造物などの現状調査に参加していました。特に仏像に関心を寄せながらまわっていたのですが、山間部や僻地(へきち)で無住の寺や公民館の収蔵庫にポツンと安置されている指定仏にしばしば出合い、感慨深いものがありました》。
本書は明治初年の神仏分離や寺勢の衰えなどで廃寺となった寺からの流出仏(旧仏)約300軀(く)を調査し、そのルートなどを解明した意欲作だ。住職や管理者の話を聞き、過去の(旧)市町村史などで裏付けを取っている。類を見ない労作である。私の目に止まった箇所をかいつまんで以下に紹介する。
▼粟原寺(桜井市粟原)
粟原(おうばら)にあった格式高い寺で、跡地は「粟原寺跡」として国史跡。近くを水量の多い粟原川が流れる。江戸末期、山崩れを伴う大洪水があり、寺が流された(粟原流れ)。このとき流出した仏像が下流の寺に納められたり、寺勢が衰えて移された仏像も含めて「粟原流れ」と総称される。口伝によれば、12軀以上の仏像が興善寺(忍坂山口坐神社の神宮寺)へ、小像12軀と石仏が石位寺(桜井市忍阪)に移された。ところがその後、何軀かが比叡山延暦寺、長野市の清水寺(せいすいじ)、サンフランシスコ・アジア美術館に移されたのだという。
▼大御輪寺(桜井市三輪)
大神神社の旧神宮寺・大御輪寺(だいごりんじ)の旧仏は神仏分離により、奈良盆地の他寺院に移された。中尊の十一面観音立像は同市の聖林寺へ、右脇侍の地蔵菩薩立像は法隆寺へ、左脇侍の不動明王像は山の辺の道の玄寶庵(げんぴあん)へ。また伝日光・月光両菩薩像は奈良市の正暦寺に移されている。
この十一面観音立像について和辻哲郎は『古寺巡礼』に、路傍に転がっていたのを聖林寺の住職が見つけて自坊へ運んだと書いているが、事実ではない。本書には聖林寺が大御輪寺宛てに発行した預証文(あずかりしょうもん)の写真が載っているし私自身、三輪のご老人から「ワシの祖父さんらが大八車に乗せて運んだんや」と聞いたことがある。
▼薬音寺(山添村大字室津)
江戸期、室津村には3ヵ寺があったが、神仏分離で薬音寺だけが残された。他の寺の仏像はすべて薬音寺に集められ、本堂には19軀もの古仏が安置された(のち1軀が加わった)。本堂の扉を開けると仏像群が一斉に目に飛び込む。本書には「異なる表現の20軀もの仏像が無秩序に並んでいる。息を呑む迫力である」。同寺の仏像群のカラー写真は、本書の表紙を飾る。
▼新薬師寺(奈良市高畑町)
新薬師寺には、春日山麓・高円山麓の廃寺の旧仏が集まる。十二神将立像は同寺の南東にあった岩淵寺から移されたものだ。伝景清(かげきよ)地蔵尊立像(着衣像)は、同寺の東にあった勝願院の旧仏で、昭和58年修理と調査のためX線撮影をすると、像内から裸形像(おたま地蔵尊)が見つかった。現在裸形像は厨子に安置し、着衣像内には強化プラスチック製のレプリカを入れて芯材としている。
ごく大まかな要所だけを紹介したが、本書には類書では得られない知見がぎっしり詰まっている。ご一読をお薦めしたい。
