法隆寺五重塔とほぼ同じ大きさの7世紀後半~8世紀ごろ(飛鳥時代後半~奈良時代)の塔の基壇(土台部分)が発掘された西安寺の現地説明会が、3月8日(日)11:00~14:00に開催される。産経新聞奈良版(3/6付)の《「西安寺の実在を確認」塔の基壇と礎石など発見》(=トップ画像)によると、
奈良県王寺町教委は5日、発掘調査の結果、古くは9世紀の文献にも登場する西安寺(さいあんじ)の塔の基礎部分にあたる基壇と礎石などを発見したと発表した。西安寺の伽藍(がらん)の遺構が見つかるのは初めてで、町教委の岡島永昌(えいしょう)主任は「西安寺が、本格的な伽藍を持った寺として実在していたことが初めて裏付けられた」と話している。
町教委によると、西安寺は、昭和初期の研究で、周辺に飛鳥-鎌倉時代の瓦が見つかっていることなどから、同町舟戸の舟戸神社境内にあったとされていた。文献では9世紀の「続日本後紀(しょくにほんこうき)」に記述があるが、16世紀を最後に登場しなくなるという。
町教委は今回、舟戸神社境内を約30平方メートルにわたって発掘。長さ145センチ、幅108センチの礎石と、長さ144センチ、幅74センチの礎石を発見。このほか、縦130センチ、横154センチの心礎を抜き取った穴や、心柱の周りに置かれる柱の礎石を抜き取った穴計5個も見つかった。
町教委は、礎石や穴の間隔から、基壇は12・99メートル四方と推定。これは法隆寺(同県斑鳩町)の五重塔や法起寺(同)の三重塔とほぼ同じサイズという。瓦など年代の分かる遺物は出土しなかったが、岡島主任は「基壇の形式などから、寺の創建は700年前後の、飛鳥時代の終わりから奈良時代の初めにかけてと考えられる」と説明している。
町教委は8日午前11時~午後2時、現地説明会を開く。駐車場はない。問い合わせは、王寺町教委生涯学習課(電)0745・72・1031。
これは大発見だ。王寺町には、スゴいお寺があったのだ。これで『続日本後紀』の記述が正しかったことが裏付けられた。場所は舟戸神社境内(王寺町舟戸2丁目)。駐車場はないとのことなので、日曜日の現地説明会には十分ご注意いただきたい。
※現地説明会の場所は、こちら(=PDF 王寺町のHP内)でご確認ください。
奈良県王寺町教委は5日、発掘調査の結果、古くは9世紀の文献にも登場する西安寺(さいあんじ)の塔の基礎部分にあたる基壇と礎石などを発見したと発表した。西安寺の伽藍(がらん)の遺構が見つかるのは初めてで、町教委の岡島永昌(えいしょう)主任は「西安寺が、本格的な伽藍を持った寺として実在していたことが初めて裏付けられた」と話している。
町教委によると、西安寺は、昭和初期の研究で、周辺に飛鳥-鎌倉時代の瓦が見つかっていることなどから、同町舟戸の舟戸神社境内にあったとされていた。文献では9世紀の「続日本後紀(しょくにほんこうき)」に記述があるが、16世紀を最後に登場しなくなるという。
町教委は今回、舟戸神社境内を約30平方メートルにわたって発掘。長さ145センチ、幅108センチの礎石と、長さ144センチ、幅74センチの礎石を発見。このほか、縦130センチ、横154センチの心礎を抜き取った穴や、心柱の周りに置かれる柱の礎石を抜き取った穴計5個も見つかった。
町教委は、礎石や穴の間隔から、基壇は12・99メートル四方と推定。これは法隆寺(同県斑鳩町)の五重塔や法起寺(同)の三重塔とほぼ同じサイズという。瓦など年代の分かる遺物は出土しなかったが、岡島主任は「基壇の形式などから、寺の創建は700年前後の、飛鳥時代の終わりから奈良時代の初めにかけてと考えられる」と説明している。
町教委は8日午前11時~午後2時、現地説明会を開く。駐車場はない。問い合わせは、王寺町教委生涯学習課(電)0745・72・1031。
これは大発見だ。王寺町には、スゴいお寺があったのだ。これで『続日本後紀』の記述が正しかったことが裏付けられた。場所は舟戸神社境内(王寺町舟戸2丁目)。駐車場はないとのことなので、日曜日の現地説明会には十分ご注意いただきたい。
※現地説明会の場所は、こちら(=PDF 王寺町のHP内)でご確認ください。