tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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名作&風景(2)小林秀雄「蘇我馬子の墓」と石舞台古墳

2006年02月07日 | ブック・レビュー
「岡寺から多武峰(とうのみね)へ通ずる街道のほとりに、石舞台と呼ばれている大規模な古墳がある。このあたりを島の庄と言う。島の大臣(おとど)馬子の墓であろうという説も学者の間にはあるそうだ。私は、その説に賛成である。無論、学問上の根拠があって言うのではないので、ただ感情の上から賛成しておくのである」
(「蘇我馬子の墓」 新潮文庫『モオツァルト・無常という事』所収)

昨年(05年)8月、石舞台の西約200mの島庄遺跡(高市郡明日香村島庄 7世紀前半)から、2棟分の柱跡が見つかり「馬子の邸宅跡とみて間違いない」(和田萃 京都教育大教授)とされた(朝日新聞奈良版 05.8.25付)。

ちなみに馬子は、邸宅に島を浮かべた池があったことから「島の大臣」と呼ばれていたもので、邸宅跡の40mほど先で一辺42mの四角い池も見つかっている。これで石舞台古墳が馬子の墓だという説は、ほぼ間違いない。小林の直感が「学問上の根拠」で裏付けられたことになる。

小林が「蘇我馬子の墓」を「芸術新潮」に発表したのは1950年(昭和25年)2月。それから56年、2300トンもの石を積み上げたこの古墳は、何も変わっていない。変わったのは周囲の光景だ。田畑がつぶされ駐車場や休憩所・売店ができ、広大な芝生広場には舞台(あすか風舞台)まで設置され、いろんなイベントが催されている。石舞台の周りには垣根が張り巡らされ、250円の入場料が必要になった。

写真は昨年の4月に撮ったものだ。桜や菜の花、彼岸花のシーズンの土日は特に観光客が多く、人が写っていないシーンを撮るのに1時間以上待ったことを思い出す。

江戸時代の石舞台古墳は、天井石だけが水田の中で露出していたそうだ。その上でキツネが女性に化けて舞った、という伝説まで作られている。それを知ってか知らずか小林は「馬子の墓の天井石の上で、弁当を食いながら、私はしきりと懐古の情に耽(ふけ)った」。

そして石室に入り「室内を徘徊(はいかい)しながら、強い感動を覚えた。どうもよく解らない。何が美しいのだろうか。何も眼を惹くものもない。永続する記念物を創ろうとした古代人の心が、何やらしきりに語りかけているのか。彼らの心は、こんな途轍もない花崗岩を、切っては組み上げることによってした語れなかった、まさにそういう心だったに相違ない」。

石舞台古墳は蘇我氏の、ひいては豪族支配の最後の記念碑だった。大化改新で滅んだ蘇我蝦夷、入鹿の墓の所在は不明だ。改新以降のいわゆる白鳳期には、公地公民、班田収授法、租庸調などの制度が整い、中大兄皇子の手で皇室の専制支配体制が確立した。飛鳥時代には豪族たちが思い思いに氏寺を建てていたものが、白鳳期には有力寺院は皇室の庇護のもとに置かれる。こうして、豪族の時代が終わった。

「蘇我馬子の墓」は、こんな文章で終わる。飛鳥を描いて、これほどの美しい文章を他に知らない。

「私は、バスを求めて、田舎道を歩いて行く。大和三山が美しい。それは、どのような歴史の設計図をもってしても、要約の出来ぬ美しさのように見える。万葉の歌人らは、あの山の線や色合いや質量に従って、自分たちの感覚や思想を調整したであろう。(中略) 山が美しいと思った時、私はそこに健全な古代人を見つけただけだ。それだけである。ある種の記憶を持った一人の男が生きて行く音調を聞いただけである」

周辺が整備されたとはいえ明日香村は、明日香法(明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法)により歴史的風土が保たれた素晴らしい村である。ぜひ足を運ばれ古代に思いをはせてほしい。
ただしお弁当は、天井石の上でなく芝生広場でお食べいただきたい。
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