tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

締め切りました!天誅組終焉の地・東吉野村を巡る(第12回古社寺を歩こう会)

2013年05月20日 | 古社寺を歩こう会
かねてより募集していました、6月16日(日)開催の「第12回古社寺を歩こう会“天誅組終焉の地・東吉野村を巡る”」の募集を締め切りました! 駐停車場の関係で、バスは1台(定員60名)といたしました。
※トップ写真は下見ツアーの様子(4/27撮影)

私の同僚・先輩から約20名、奈良まほろばソムリエの会から約20名、当ブログ読者からはM本さんご夫妻(打ち上げ不参加)、やすこさん(同)、ヨシノさん(同)、東京のY本さん(打ち上げ参加)の5名(漏れている方はいらっしゃいませんか?)の約45名の方にお申し込みをいただきました。まだ若干名の乗車は可能ですので、「申し込むのを忘れていた」という方は、お申し込み方法をご確認の上、以下のアドレス宛、メールをお願いいたします。
kosyaji@goo.jp
当日は、郷土史家の阪本基義さん(同村教育委員会教育長)と上辻(かみつじ)元治さん(天誅組150年顕彰記念実行委員会事務局)のお2人にガイドしていただきます。阪本基義さんには『草莽ノ記~天誅組始末~』(東吉野村刊 800円)というご著書もおありで、ツアー時には同書の販売もいたします。

バスの車中では、天誅組や幕末の日本について解説しますので、事前学習になります。関連資料もたくさん配付いたします。参加メンバーには東吉野村のご出身者もいらっしゃいますので、とっておきの話が出てくるかも知れません。ランチタイムには四季 天然料理の宿 杉ヶ瀬で、鮎と朴の葉寿司をいただきます。打ち上げ(坐・和民 大和八木店)は飲み放題つきですので、大いに盛り上がると思います。

「古社寺を歩こう会は、なぜ3月とか6月とか、いつも観光シーズンを外すの?」と聞かれることがありますが、それには理由があります。観光のピークシーズンには、我々地元民ではなく、遠方のお客さんに奈良・大和路を楽しんでいただきたいのです。奈良県はシーズンによる繁閑の差がありすぎますので、少しでもそのお役に立てれば、と思っています。今回は梅雨時ですが、そんなに長い距離は歩きませんので、雨でも傘があれば十分です(荒天時のみ中止といたします)。

ご参加の皆さん、どうぞ6月16日(日)をお楽しみに!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

募集開始!天誅組終焉の地・東吉野村を巡る(第12回古社寺を歩こう会)

2013年05月08日 | 古社寺を歩こう会
お待たせしました!いよいよ6月16日(日)、第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」を開催します!今年は天誅組決起150年の記念すべき年です。これにちなみ、東吉野村内の天誅組関連史跡を訪ねるバスツアーを実施するものです。
※写真はすべて、同僚と訪ねた下見会(4/27)で撮影。トップは千代橋の宍戸彌四郎戦死地


明治谷(みょうじだに)墓地

昨年の6月にはプレ150年記念として、五條市の天誅組史跡を訪ねるというウォーキング・ツアーを開催し、64名の方にご参加いただき、ご好評いただきました。


写真中央が阪本基義さん。向かって右から2番目が上辻(かみつじ)元治さん。
右端は、同村ご出身の前防(まえぼう)道徳さん(奈良まほろばソムリエ)

今回は貸切バスを用意して、東吉野村に足を伸ばします。ご案内役は、郷土史家の阪本基義さん(同村教育委員会教育長)と上辻(かみつじ)元治さん(天誅組150年顕彰記念実行委員会事務局)のお2人です。天誅組に関し、同村ではお2人の右に出る人はいません。阪本さんには『草莽ノ記 天誅組始末』というご著書もあります。大和八木⇔同村のバス車中では、NPO法人奈良まほろばソムリエの会メンバーが、天誅組に関する解説をします(予習・復習として)。概要は、


この日は「四季 天然料理の宿 杉ヶ瀬」で、アマゴの刺身、アマゴの塩焼き、
自家燻製の奈良漬などのランチに舌鼓(6/16とは、メニューが異なります)

Ⅰ.スケジュール(-----はバス、・・・・は徒歩。現地訪問先は微調整あり)
近鉄奈良駅・奈良商工会議所前8:10集合・8:20出発-----JR奈良駅西口ロータリー8:30出発-----大和八木駅南口・ローソン前9:20到着・トイレ休憩のあと9:30頃出発-----ニホンオオカミの像(車窓)-----東吉野村役場10:30着・トイレ休憩のあと10:40頃出発---明治谷(みょうじだに)墓地・・・天誅義士記念碑・・・植村定七戦死地・・・出店坂・・・那須信吾戦死地(彦根藩脇本陣碇屋)・・・山下佐吉戦死地・・・宍戸彌四郎戦死地(千代橋)・・・林豹吉郎戦死地・・・千代橋---「四季 天然料理の宿 杉ヶ瀬」12:00着・昼食のあと12:40頃出発----鍋島米之助戦死地(車窓)----吉村寅太郎戦死地----龍泉寺・・・・藤本鉄石・福浦元吉戦死地(紀州藩脇本陣日裏屋)・・・・紀州藩本陣跡・・・・八幡神社・・・・・・・・津藩(藤堂)本陣油屋・・・・・・・・森下幾馬戦死地・・・・・・・湯ノ谷墓地-----大宇陀道の駅(トイレ休憩)----大和八木駅着16:00頃----近鉄・JR奈良駅着17:00頃


湯ノ谷墓地。下の写真も



※JR奈良駅の集合場所は「西口ロータリー」(ホテル日航のある側)、大和八木駅は「南口」(バスターミナルのある側)なので、ご注意を。
※1ヵ所、急な石段がありますが、そのほかは平坦なコースです。
※帰り、大和八木駅南口スグの「坐・和民 大和八木店」で、希望者による打ち上げをします。

Ⅱ.費用
参加費用は、貸切バス代、昼食代、資料代、傷害保険料などを含み、@4,800円です。打ち上げに参加される方は、別途@3,500円(女性は@3,000円)です(飲み放題つき!)。



ランチは四季 天然料理の宿 杉ヶ瀬で、鮎の塩焼きと朴(ほお)の葉寿司の料理をいただく予定です。こちらは《季節の食べ物 走り、旬、名残り。そんな当たり前の『天然』。天然の山菜、高見川で釣れた鮎あまご、鹿、いのしし、松茸。心こもった天然料理。杉並木、清流の瀬音、庭で奏でるセミの声 杉ヶ瀬には自然しかありません。杉ヶ瀬は当たり前の『天然・自然』で皆様をお待ち申し上げております》という「天然自然」の料理旅館です。



お申し込みの締め切りは5月20日(月)といたしますが、先着順(定員90名)ですので、お早めにお申し込み下さい(締め切り日に定員に達していない場合は、継続して募集することがあります)。なお6月9日以降のキャンセルには、キャンセル料1,000円が必要ですので、ご注意ください。

お申し込みの際は、
1.ご住所
2.お名前
3.携帯電話番号(お持ちでない場合はご自宅の電話番号)
4.バス乗車地(近鉄奈良駅、JR奈良駅、大和八木駅のいずれか)
4.打ち上げ(八木の坐・和民)参加の有無


を明記の上、以下の専用アドレスあてメールをお送りください(グループでご参加の場合、ご住所と電話番号は代表者のみで結構ですが、お名前は全員の氏名をお知らせください。また打ち上げ参加の有無も、全員分をお知らせください)。携帯メールではなく、パソコンからお送りください。着信があり次第(1週間程度以内に)、私から確認の返信をいたします。

※私の同僚と「ナント・なら応援団」の皆さんには別途、申込書を送付済ですので、そちらからお申し込みください。「NPO法人奈良まほろばソムリエの会」の皆さんには別途、メールを送付済ですので、そちらからお申し込みください。いずれも締め切り日は、5月20日(月)といたします。

[当ブログご愛読者専用の申し込みアドレス]
kosyaji@goo.jp

天誅組決起150年の年にゆかりの地を巡る、という記念ツアーです。ガイドお2人の解説は、深くて分かりやすくて、素晴らしいものでした。ぜひお友達もたくさんお誘いください。今回も、たくさんのご参加をお待ちしています!
コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Coming Soon!ぐるっと大和の古社まいり(PARTⅠ.御県坐神社編)第11回古社寺を歩こう会

2012年11月19日 | 古社寺を歩こう会
私の休暇も、最終日となった。日曜日(11/25)は、いよい第11回古社寺を歩こう会「ぐるっと大和の古社まいり(PARTⅠ.御県坐神社編)」である。参加者は全45名、うち打ち上げ参加者は20名となった。詳しい行程は以下のとおりである。

◆集合・出発
奈良商工会議所前(近鉄奈良駅)集合8:25、出発8:35
JR奈良駅(西口ロータリー)は8:45出発
※集合場所を変更される場合は、あらかじめお知らせください。
kosyaji@goo.jp

◆スケジュール
1.添御縣坐神社(歌姫)※バス進入禁止のため通過
2.添御縣坐神社(三碓)
3.道の駅「大和路へぐり くまがしステーション」(休憩)
4.葛木御縣神社
5.かつらぎの森=トップ写真(「レストラン明日香」で地場産品を使った洋風松花堂弁当の昼食)
6.久米御縣神社
7.高市御縣神社
8.十市御縣神社
9.志貴御縣神社
10.山辺御縣神社(西井戸堂)
11.山辺御縣神社(別所)

16時半頃に天理駅着。打ち上げ参加者(20名)は徒歩で遊食庵 秋田屋へ。直帰の方はそのままバスで近鉄・JR奈良駅へ。

◆参加費
@4,800円(昼食時に集金します)
打ち上げ参加者は別途@3,000円、ただし女性は@2,500円(現地で集金)

今回もマニアックなツアーになりそうである。ご参加の皆さん、お楽しみに!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御県坐神社(みあがたにますじんじゃ)

2012年11月11日 | 古社寺を歩こう会
11/25(日)に開催する第11回古社寺を歩こう会「ぐるっと大和の古社まいり(PARTⅠ)」では、木村三彦さん(奈良県観光ボランティアガイド連絡会会長)に講師をお願いして、奈良県下の「御県坐神社(みあがたにますじんじゃ)」をバス1台で回る。

当ブログ読者からは、香芝市のM本さんご夫妻と奈良市のH田さんが参加される。あとは私の職場の同僚・OB(11人)と、奈良まほろばソムリエ友の会の面々(30人)である。講師を入れて計45人、うち懇親会のご参加は20人である。懇親会は木村さんにもご参加いただけるので、ここでお話が聞けるかもしれない。
※トップ写真は、木村三彦さんによる勉強会「大和の古社」(10/11撮影)

さて、御県坐神社(御県神社)とは何か。11/8(木)、「古社寺を歩こう会」で講師を務めてくださる木村三彦さんによる勉強会が開催され、この辺りの知識を身につけた。ネットからの情報も交え、以下に紹介する。なお太字は私がつけた。

Ⅰ.総論の部
1.御県坐神社、山口神社、水分神社

大和に特徴的な神社に、以下の3種類がある。
(1)御県坐神社(みあがたにますじんじゃ)
 大王(天皇)に献上するための野菜を栽培する神聖な菜園の霊を祀る神社。たいてい平野部の穀倉地帯・田園地帯にあり、周囲には集落が形成されている。
(2)山口神社
 その地の山の神を祀る神社のことで、山裾(やますそ)や山の中腹にある。
(3)水分神社(みくまりじんじゃ)
 水分神(流水の分配を司る神)を祀った神社で、雨乞いの対象となることもあった。高原地帯にある。


2.県主(あがたぬし)は司祭者的性格
県(懸=あがた)の語源は、吾(あ)が田、上(あ)が田、分(わ)かつ田(=班田)など、諸説ある。上田正昭著『日本古代国家成立史の研究』(青木書店刊)によると、3世紀末~4世紀頃にあった大王(天皇)家の領地である。


世界大百科事典(ネットで百科)によると「県」とは《倭 (やまと) 王権下の地方組織または区分。(中略)県,県神社,県主など関連名称の地域的分布は, 大和・河内を中心に遠江・信濃・越前以西に多く残存し, 筑紫の岡県主・伊覩 (いと) 県主の祖が賢木 (さかき) に鏡, 剣,瓊 (たま) をかけて服属したという伝承 (《日本書紀》仲哀 8 年条, 《筑前国風土記》) は,県が本来祭祀的集団を基盤として倭王権に早期的に統属された地方単位であることを物語る》。

県(あがた)を治めていたのが「県主(あがたぬし)」である。学研の学習百科事典には《大化の改新前に,県(あがた)といわれる地域をおさめていた人。大和国家が国を統一する以前は,日本の各地に小さな国がたくさんあった。その小さな部族国家の首長が,大和国家にしたがい,その地が県とされた場合,たいてい,それまでの地位を県主(あがたぬし)としてみとめられた》とある。

もう少し詳しい説明が「ネットで百科」に出ていた。《倭 (やまと) 王権の地方組織であった県の長。 県の性格そのものが,王室の直領地, 国造が管する国の下級組織,あるいは評 (こおり), 郡の直接前身をなす行政区画と解されるなど一定せず, 県主の理解もなお定まっていない。 しかし高市県主許梅 (こめ) が壬申の乱中に神託を下し, また県主神社,県神社が祭られたなど, 県主に司祭者的色彩がつよい。 《延喜式》祝詞にみえる大和の六御県(むつのみあがた) が供御料地とされ, 山背の損野県主が殿部 (とのもり),水部 (もいとり) となって奉仕したとあるように, 王室への従属性は明らかである》。

県主とよく似たカテゴリに「国造(くにのみやつこ)」がある。学習百科事典によると《大和朝廷が各国においた地方官。朝廷に征服された地方の豪族がそのままの地位をみとめられて国造に任命され,地方の政治を担当した。大化の改新で廃止されたが,多くは郡司(ぐんじ)に任命された》。

「ネットで百科」によると《古代の地方官豪族。(中略)国造は国(くに) と呼ばれる地域の支配者で, 古い形の地方長官ともいえる。 多くは各地域の小君長の後であり,中には 4 世紀から 5 世紀にかけて盛行した大和朝廷の地方制度である県主(あがたぬし) が国造になったものもある。(中略)成務記に〈大県小県の県主〉を定めたという記述があることから, 国造と県主とは上下の関係で,1 国造のもとに 10 県主が置かれる国県制があったとする説も唱えられたが, 両者がそれほど整然とした構造を持つ同一時代の制度であったことを示す史料もない》。

つまり国造は官僚、県主は部族(有力豪族)の長、という違いだ。1:10の割合で国造がエラい、という説もあるが、両者の役割分担や地位の上下は諸説あってハッキリしないのが実情だ。しかし県主のスゴイのは、娘を天皇家に嫁がせていることである。『古事記』によれば、第2代綏靖、第3代安寧、第4代懿徳、第7代孝霊、第9代開化の皇妃は県主の家から出ている。だから天皇家とは親戚づきあいをしていたことになり、いわば「私的な支配」を受けていたようなニュアンスである。

「御県神」は、部族が神聖な菜園の霊を神として祀ったものであり、人格神であり部族の家の祖先神である。

3.大和の六御県坐(むつのみあがたにます)神社
延喜式「祝詞(のりと)」には、大和の国の6社の御県坐神社(大和の六御県坐神社)が登場する。うち2社には1社ずつ異説地があり、それら(2社)を加えると計8社。そこに、延喜式「神名帳」にのみ記載のある久米御県神社を加えると、計9社になる。リストアップすると

①高市御県神社(四条・橿原市)
②葛木御県神社(葛木・葛城市)
③十市御県坐神社(十市・橿原市)
④志貴御県坐神社(金屋・桜井市)
⑤-1山辺御県坐神社(別所・天理市)
⑤-2山辺御県坐神社(西井戸堂・天理市)
⑥-1添(そう)御県坐神社(歌姫・奈良市)
⑥-2添御県坐神社(三碓・奈良市)
⑦久米御県神社(久米・橿原市)


六御県(むつのみあがた)は「ネットで百科」にも出ていた。執筆されたのは、和田萃(わだ・あつむ)さんである。《大化前代に,奈良盆地に置かれていた宮廷直轄領。 倭六県 (やまとのむつのあがた)ともいう。 添 (そふ),山辺 (やまのべ),磯城 (しき),十市 (とおち), 高市 (たけち),損城 (かつらぎ) の六つの県(あがた) は, 特に,六御県と称された。 それぞれの御県神社が,式内社として存在している》。

《県の範囲は未詳であるが,高市御県については, 橿原市四条町に高市御県神社,橿原市雲梯町に高市御県坐鴨事代主神社が所在することから, その範囲は郡より狭く,郷程度だったかと思われる。645 年 (大化 1) 8 月,東国等国司の任命とともに, 倭六御県にも使者が遣わされ,戸籍を造り, 田畝を校ずることが命じられている。 ここにも,倭の六県が大化前代において宮廷の重要な経済基盤であったことがうかがえよう。 祈年祭の祝詞などに,六御県から甘菜, 辛菜が貢上されることがみえるので, 大化後においても何らかの実態を保ち, そのため六御県の呼称が残ったものと考えられる》。さて、9社の中身を見てみよう。「所在地」「御祭神」は、HP「大和の神社」から引用した。

Ⅱ.各論の部
1.高市御県神社(コケの宮)では、今も高木家ご一統が祭祀

所在地
奈良県橿原市四条町761
御祭神
天津彦根命 (あまつひこねのみこと)(高市県主の祖)
高皇産霊神 (たかみむすびのかみ)
①高市御県神社(コケの宮)については『今井町史』(P454~455)に記載があった。若林稔さん(今井町町並み保存会会長)からコピーをいただいたので、以下に引用する。《コケの宮 式内大社御県社であるが、高木一統によってまつられる祖先神であるということから、高木(コーギ)社とも呼ばれている。現在、高木正次郎・高木由太郎・上田健三・上田正雄・高木嘉蔵の5家によって祀られているが、高木家の2代目惣領忠右衛門が上田姓を名乗り、壺屋の名義を相続したため、その末裔である現在の上田長之助家が中心になって祭祀をおこなっている》。

《毎年豆の名月の旧9月13日に、順番に頭屋を勤め、昼に飲食をともにし、夜はミチ提灯とて高張提灯を持って神主と同道して宮に参る。昔は皆裃(かみしも)を着けて参ったものである。頭屋は神饌御供物9台―御神酒・鏡餅(2升餅1重)・塩水・洗米・するめ5枚・果物(柿・まつたけ)・野菜(大根・牛蒡・枝豆)・鯉・昆布―を供える》。

HP「大和の神社」によると《「延喜式」神名帳によると御県の神の中で唯一名神祭にもあずかった。高市県については 「古事記」神代巻に「天津日子根命者高市県主等之祖也」とあり、「日本書紀」天武天皇元年(六七二)七月条に「高市県主許梅(たけちのこめ)」の名がみえる。所在は明確でないが、現曽我町字宮毛説が有力で、現橿原市の西部地域に推定されている。『延喜式」神名帳高市郡には高市御縣坐鴨事代主神社(現橿原市雲梯町の河俣神社に比定)の名もみえる。-寺院神社大辞典(平凡社)より抜粋-》。

2.葛木御県神社では、県主の祖神・剣根命が祀られる
所在地
奈良県葛城市葛木68
御祭神
天剣根命(あめのつるぎねのみこと)
天津日高日子番能瓊々杵尊あまつひこほのににぎのみこと)
②葛木御県神社(葛木・葛城市)については『奈良県史5 神社』に、こんな記述があった。《天津日高日子番能瓊々杵命(あまつひこひこほのににぎのみこと)を祀っていたが、明治年間天剣根命(あめのつるぎねのみこと)を追祀した。『姓氏録』神別の条に、葛木忌寸(いみき)は高御魂命(たかみむすびのみこと)5世の孫、剣根命の後とあり、高木氏の祖神とみられる》。

《『三代実録』貞観元年(859)従五位上に昇叙され、大和の六県社の一つで、すでに大同元年(806)の『新抄格勅符抄』に備前国に封戸ニ戸をあてられ、延喜の制で大社に列して案上官幣に預かっている。当社は古来桑海村(大字葛木の旧名)にあったが、延宝八年(1680)領主桑山氏の信仰した諸鍬・八幡の二社を、北花内の埴口陵に遷座、近村の神社も集めてすべてその末社としたが後、元治元年(1864)山陵修理に当って当社が式内大社の故を以って元の社地に遷座、今日に及んだ》。

3.十市御県坐神社、社伝では十市県主の祖・大目(おおめ)が御祭神
所在地
奈良県橿原市十市町1番地(奈良県自動車運転免許試験場の北東500m位)
御祭神
主祭神 豊受大神(とようけおおかみ)
相祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
③十市御県坐神社(十市・橿原市)について、HP「大和の神社」には《大和國六御縣神社の一座として朝廷の尊崇厚く醍醐天皇延喜には大社に列し、祈年・新嘗・月次の安上官幣に預かり、又古この地方は朝廷の御料地で守護神として蓻菜の生育を祈願せられ庶民より農業の神として廣く信仰をあつめ年俗に十三社明神と称された-境内の案内板より-》。

《寺川北岸に鎮座。豊受大神(とようけおおかみ)に市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を合祀。旧村社。近世には十三社明神と称し(棟札)、社伝では「古事記」考霊天皇段の十市県主の祖大目(おおめ)を祭神とする》《社蔵棟札には神宮寺と思われる「籐楽寺」の寺名がみえるが、元亀三年(1572)の補厳寺納帳(補厳寺文書)には「字スモモ 一段 殿ヨリ宿院ヘ御寄進 東楽寺地作神田」とあり、当社西方に字李が現存する。境内には大日堂があったが、明治初年の廃仏毀釈で本尊は南西方の正覚寺へ移された。正覚寺は通称南坊といわれ、小堂と庫裏を残すだけの廃寺で、本堂を阿弥陀堂と称した。「大乗院寺社雑事記」寛正三年(1462)二月十一日条に、十市正覚寺が本尊として元興寺極楽坊(現奈良市)の丈六阿弥陀如来像を所望し、許されたことが見える。堂内には大日堂から移した大日如来(平安後期)を安置。ほかに平安前期の地蔵菩薩立像(県指定文化財)、梵天とみられる立像(平安前期)を蔵する-寺院神社大辞典(大和・紀伊)より-》。

4.志貴御県坐神社には志貴県主(物部氏系)の遠祖・ニギハヤヒを祀るとの説も
所在地
奈良県桜井市金屋896
御祭神(主祭神)
大己貴命(おおなむちのみこと)
④志貴御県坐神社(金屋・桜井市)についてHP「大和の神社」によると《主祭神 大己貴命 (おおなむちのみこと)》《由緒 第十代、崇神天皇の皇居跡と伝えられています。神山・三輪山を背後に背負い、歌垣の伝えで名高い海柘榴市を脚下に控えて、大和平野を見渡す高燥の地です。東へは、泊瀬道、伊勢を経て東国へ。南へは、磐余道、飛鳥を通じて紀伊方面へ。北へは、山辺の道、奈良、今日を経て北陸、日本海方面へ。西へは、大和川の水運を利用して難波、瀬戸内海方面に繋がる交通の要衝です。古代大和王権、発展の拠点であったとも言える場所です。-案内板より-》。

HP「戸原のトップページ」によると《祭神 式内社調査報告(1982)によれば、「現在、大己貴神(オオナムチ)を祀る(志貴御県坐神社明細帳)」とあるが、境内に案内表示が見えず、真偽不明。一方、大和岩雄氏(日本の神々4・収録・志貴御県坐神社-2000)は、饒速日・弟磯城の2説を挙げている。饒速日命(ニギハヤヒ)新撰姓氏禄(815)に「大和国神別(天神)志貴連(シキノムラジ)神饒速日命孫日子湯支(ヒコユキ)命之後也」また先代旧事本紀(9世紀後半・物部氏系史書)にも、「ニギハヤヒ七世の孫・建新川命(タケニイカワ)および八世の孫・物部印岐美石連公(モノノベノイキミノムラジキミ)は、志貴県主(シキアガタヌシ)の祖である」とあることから、物部氏系の志貴連(県主)が、その遠祖・ニギハヤヒを祀った(志貴県主は、天武朝の御代、連の姓を賜っている)。

《弟磯城(オトシキ)日本書紀・神武紀に「弟磯城(オトシキ)-名は黒速(クロハヤ)を、(橿原宮で即位したとき)磯城(志貴)の県主とされた」また先代旧事本紀には、「志貴県主の兄磯城を誅(ツミナ)ふ。弟磯城を以て志貴県主と為す」とあり、神武天皇の大和侵攻に際して、抵抗して誅殺された志貴の豪族・兄磯城(エシキ)に代えて、帰順したオトシキを志貴県主としたとあることから、オトシキの後裔が、その遠祖・オトシキを祀った。上記以外に、『御県の霊』(ミアガタノレイ)とする史料(大和史料・1915)もあるが、これは“その“在地の神”を指す一般名称で、固有の神名ではない》。

《境内の一画に、『崇神天皇磯城瑞籬宮趾』(スジンテンノウ シキノミズカキノミヤ アト)との石碑が立っている(大正14年・1925、奈良県建立)。当地を磯城瑞籬宮趾とするのは、江戸中期の史書・大和志(1736)に、「(瑞籬宮は)三輪村東南志紀御県神社西に在り」と記すからというが、その根拠は不明。大和志の編者・並河誠所(1668--1738)が、当社の社名・志貴から磯城を類推したものともされている。これに対して、桜井市史(1979)は「いまのところ、崇神天皇の磯城瑞籬宮はシキの地の何処かに伝承されていた宮というほかないであろう」とあり、瑞籬宮推定地の一つとしている》。

5.山辺御県坐神社は、山辺県主の祖神を祀る
鎮座地
天理市別所町、天理市井戸堂町大門
御祭神(主祭神)
建麻利根命(たけまりねのみこと)
⑤山辺御県坐神社(別所・天理市)(西井戸堂・天理市)は『奈良県史』によると《鎮座地が2か所に比定されていて何れとも裁定し難い。祭神は『神社明細帳』に建麻利尼命(たけまりにのみこと)とあり、『旧事本紀』『神名帳考証』は山辺県主の祖神と記している。別所の神社創祀は明らかでなく、明治初年まで本殿なく、玉垣を設けて後方の尾崎山を神体として奉拝していたので玉垣宮と呼ばれていたが、明治12年頃玉垣内発掘、刀剣・金環等出土したのでここに本殿を造営したという(『天理市史』)。本殿後の玉垣の外に磐座の祭祀遺跡が保存されている。例祭は10月1日。井戸堂の神社について『大和志』は式内の当社はこの神社に比定しているが、境内地や周辺に山辺御井の伝承をもつ井戸があり由緒ある古社であることを思わせる。近世に白山権現と称したことは、慶長12年(1607)の棟札や江戸期の石灯籠名で知られる》。

6.添御県坐神社の武乳速命は、県主の祖先神
所在地
奈良市歌姫町御県山999、奈良市三雄三丁目
御祭神
建速須佐之男命(たけはやすさのうのみこと)
櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
武乳速命(たけちはやのみこと)
⑥-1添御県坐神社(歌姫・奈良市)は『奈良県史』によると《歌姫町集落の西北隅、木津への街道の西に鎮座する。添上・添下郡の接点に当り俗に御県山という。『大和志料』は『延喜式』神名帳添下郡の添御県坐神社に比定しているが、『大和志』は「在三碓村今称天王」といっていて何れとも判定し難い。祭神は速須佐男命・櫛稲田姫・武乳速命で旧指定村社》《今の社殿は山の南斜面にあるが、もとは南に少し下った所にあったが、郡山藩主の参勤交代時に神前通行は神威をけがすとのことで現在地に遷座したという。例祭は10月10日。宮座は4人衆で運営されるが、神主を勤めた人は10人衆に入り宮座の長老として神社の維持や行事をとりしきるという。神社の南に旧神宮寺だったと伝える平安寺跡があり、小堂がある》。

HP「大和の神社」によると《祭神・速須佐之男命は皇祖・天照大神の弟神、櫛稲田姫命は、須佐之男命によって八岐大蛇の難をのがれ、命の妃となった姫神。武乳速命は添の御縣の地の祖神です。延喜式の祈年祭の祝詞によると、御縣の神は代々天皇の御膳に献上したと記されています。また祭神・櫛稲田姫の神名は「奇(く)し稲田」が原義でその神格は農の神であります。当神社は、大和平野中央を貫く古代の下つ道の北端に位置します。そして、大和から歌姫超えで諸国へ旅をする際に、国境に鎮座する手向けの神として尊崇されていました。万葉集に左大臣・長屋王の詠んだつぎの歌があります》。

《佐保すぎて寧楽(なら)の手向けに置く幣(ぬさ)は 妹を目離れず相見しめとぞ この歌は、大和と山城の国境の神、添御縣坐神社を拝し、旅の安全を祈念したものと考えられます。当神社は、格のある式内社・御縣社の一つとしてだけでなく、農の神、旅の神として崇敬されてきました。江戸時代には、「牛頭天皇社」「八王子社」として除災・治病の神としても信仰されてきました。-神社の案内板より-》。

⑥-2添御県坐神社(三碓・奈良市)は『奈良県史』によると《富雄川の東部小丘陵に鎮座する。武乳速命(たけちはやのみこと)・速須佐男命・櫛稲田姫を祀る》《『大和志』添下郡神廟に「添御県坐神社 大・月次・新嘗 貞観元年正月授5位上 在三碓村今称天王」と『延喜式』の大社にあてているが、歌姫町にも同社名同祭神の社あり式内社てする説もあり、何れとも断定し難い。江戸時代には「添田天神」とも称したことは神域の金石文でもわかる》《境内社として恵比寿社(蛭子命)・英霊社(護国英霊)・福神宮(小野福麿)・九人神社(福麿の従者たち)・竜王神社(豊玉彦命)・愛宕神社(火産霊神)がある》。

HP「大和の神社」によると《富雄川の東部小丘陵にある。旧村社。祭神は武乳速命・建速須佐男命・櫛稲田姫命 。『大和志』に『添御県坐神社、大月次新嘗、貞観元年正月授従五位上、在三碓村今称天王』とある。同名の神社が現奈良市歌姫町にもあり、祭神も同じ。『大和志』、度会延経の『神名帳考証』などは当社をもって『延喜式』神名帳の添下郡『添御県坐神社』とし、『大和志料』は歌姫説をとる。『神名帳考証』によると、当社は『添田天神』とも称したというが、江戸時代の宮座文書、鳥居・灯籠・手水鉢の銘などから牛頭天王社であったことがわかる》。

《現生駒市上町の伊弉諾神社が上鳥見荘、現奈良市石木町の登弥神社が下鳥見荘の鎮守といわれ、当社は中鳥見荘の鎮守で宮座は村落共同体の名かで重要な位置を占めた。宮座には八座の村座と、それを支配する井司座がある。井司座は明徳五年(1394)以前の成立と伝え、享保十四年(1729)の井司由緒記(大神家文書)が残る。井司とは井手司で、用水の分配及び管理をつかさどった。もとは年長順であったが、家筋が固定して世襲となり、現在は一家だけで井手の運営とも関係ない。当社北隣に別当寺の真福寺があったが、寛政三年(1791)にはすでに無住とあった(富雄町史)。しかし井司由緒記によると、座入りには真福寺別当も立会い、牛頭天王御行・薬師御行などは社寺一体となって執行された》。

《例祭は10月13日。近年までダンジキ(檀尻の義)という太鼓台が練り回った。本殿は五間社流造・檜皮葺で、室町時代の手法を示し、国指定重要文化財。昭和40年(1965)の解体修理の際、相の間の羽目板から永徳三年(1383)の墨書が発見され、永正3年(1513)・寛文5年(1665)・文政3年(1820)に修理されたことが明らかになった。なお西隣にある根聖院(真言律宗)はもと当社の別当寺で、本堂は天明五年(1785)の再建。真福寺の後身とも考えられる。-寺院神社大辞典より-》

7.久米御県坐神社も、久米直が自らの祖神を祀ったのが創祀
所在地
橿原市久米町786(久米寺の南に鎮座)
御祭神(主祭神)
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
大久米命(おおくめのみこと)
天槵根命(あまのくしねのみこと)
⑦久米御県坐神社(久米・橿原市)は『奈良県史』によると《近鉄橿原神宮駅西出口の西北方、久米寺の南隣に鎮座する。高皇産霊命(たかみむすびのみこと)・大久米命・天櫛(正しくは木偏に患)根命(あまのくしねのみこと)を祀る》《久米直(くめのあたい)が自らの祖神を祀ったのが創祀とされている》。

HP「大和の神社」には《久米御県が設置された時期は明らかでないが、垂仁天皇二十七年には久米邑に屯倉を興しており(日本書紀)、久米御縣神社もかなり早期に鎮祭されていたとみられる。当社はもと久米寺の鎮守で、「和州久米寺流記」には「天暦六年、国宣将云、去春依霊託久米寺東塔基、敬奉祀天満御霊、是為鎮護国家興法利生也、自今以後、久米長者氏人等、毎年八月二十五日応奉祭之者」とあり、神仏分離により独立した。なお延宝六年(1678)に畝傍寺が奉納した石灯籠があるが、畝傍寺がどの寺を指すか不明。-寺院神社大辞典(大和・紀伊)より-》。

ずらずらと情報を列挙したが、何となく感じはつかんでいただけたと思う。11/25(日)の「古社寺を歩こう会」では、「⑥-1添御県坐神社(歌姫・奈良市)」以外の御県坐神社は、すべて回る予定である(⑥-1は、バスを駐められる場所から相当な距離があり、しかも交通量が多いので諦めた)。

今回は相当マニアックなツアーとなるが、めったにお参りできない古社ばかりである。参加される皆さん、どうぞお楽しみに!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

締め切りました!第11回古社寺を歩こう会(ぐるっと大和の古社まいり PARTⅠ.)

2012年10月22日 | 古社寺を歩こう会
11/25(日)に開催する第11回古社寺を歩こう会「ぐるっと大和の古社まいり(PARTⅠ.御県坐神社編)」の募集を締め切りました。たくさんのお申し込みをいただき、有難うございました。定員の80人には達していないのですが、下見の結果、バス1台分で打ち切ることといたしました、悪しからず。



当日お参りする御県坐(みあがたにます)神社をマイカーで2日かけて回りましたが、アクセスに不便な所が多くバスの駐停車が難しいため、バス1台で回ることといたしました。また、奈良市歌姫町の「添(そう)御県坐神社」(=写真。10/14撮影)は、バスを降りてから1km近く、歩道のない道を歩きますので、ここはカットすることといたしました(車窓から周辺を眺めるだけにします)。「添御県坐神社」は、異説地が別に1ヵ所(奈良市三碓)ありますので、こちらはちゃんとお参りすることにいたします。



それでも「どうしても参加したい」という方には、補助席を使うという手がありますので、それでもよろしければ、今からでもお申し込みいただいても結構です。

下見をして、「御県坐神社」のロケーションに共通点があることがよく分かりました。下見の時期、周囲では稲穂が垂れていましたが、本番の日には、紅葉が楽しめることと思います。詳細スケジュールは追ってお知らせいたします。ご参加の皆さん、ぜひお楽しみに!
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする