てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

異邦人が写したパリ ― イジスの写真を観る ― (2)

2012年02月27日 | 美術随想

『カップル』(1952年頃)

 イジスとドアノーは1歳ちがいだと書いたが、イジスの『カップル』という写真は、ドアノーの代表作『パリ市庁舎前のキス』を思い起こさせる(詳しくは「モノクローム・ド・パリ - ドアノーを回顧する - (1)」を参照)。

 ドアノーの写真が1950年のものだから、『カップル』とは年代的にも近い。ただ、イジスのほうはトラファルガー広場で撮られたというから、舞台はロンドンである。

 『パリ市庁舎前のキス』は、キャパの『崩れ落ちる兵士』と同様、長らく“やらせ”論争が絶えることのなかった作品である。そのへんの真偽はさておき、イジスの『カップル』は周囲にほとんど人影がないことから、被写体として狙われやすい条件にあったといえる。むしろ「撮ってください」といわんばかりに・・・。

 誤解をおそれずにいえば、この写真には「隠し撮り」に近い一面があるのである。隠し撮りといえば、今でもしょっちゅう週刊誌に掲載されているぐらいなので、カメラを手にした人間が二度と抜け出すことのできない甘い蜜のようなものかもしれない。

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 実は路上で撮影する写真家にとって、隠し撮りの疑惑をもたれることはしばしばあることらしい。以前に展覧会を観たことのある森山大道は、都会の雑踏を歩きながらコンパクトカメラのシャッターを切りまくるタイプだが、たまたま写った人とトラブルになったことがあると、何かの本で書いていた。けれどもそういう危険性は、かの土門拳だって、現代のアラーキーにだってあるわけだし、多少は覚悟しながら仕事をしているのだろうと思うけれど。

 ただ、『カップル』は、そういったドキュメンタリーふうの臨場感よりも、抱き合うふたりのかっこうに思わず眼が行ってしまう。女は今にも男を押し倒してしまいそうな勢いだし、男のほうもそうはさせまいとして上体を後ろへ反らし、肘を踏ん張っている。だが、男がそんな苦労をしているということは、女の眼には入っていないにちがいない。

 幸か不幸か、このカップルは顔がほとんど写っていないので、ドアノーのように肖像権をめぐって訴訟を起こされることもなかっただろう。モデルの詮索よりも、若い男と女の微妙な力関係、その駆け引きの絶妙さが普遍的なもののように思えて、ぼくの印象に残った。

 もしこの男女がめでたく夫婦になったとして、数年後にはきっと旦那は奥さんの尻に敷かれているにちがいない、などと余計な想像までしてしまいたくなるのは、それこそいらぬ詮索というべきものではあるが。

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『シャボン玉を吹く男』(1952年頃)

 『シャボン玉を吹く男』も、ロンドンで撮影された。今回の作品は2枚とも「異邦人が写したパリ」という本稿のタイトルに反するが、まあ大目に見ていただきたい。

 というのも、この名も知れぬ男の風変わりな姿が、ぼくの脳裏に焼き付いてしまったからだ。一瞬、眼鏡をかけたとても知的な顔に見えた。だがよく観察すると、男の眼の前にシャボン玉が浮かんでいるのが、丸眼鏡の縁のように見えているのだとわかった。

 それにしても、不思議なシチュエーションである。イギリスの紳士が、こともあろうに街中の雑踏のなかでひとりシャボン玉を吹いているとは・・・。もしかしたら近くに幼い子供たちがいて、この男はお手本を見せてやっているだけなのかもしれないのだが、状況を説明するものが何も写っていないので、こちらは自由に想像の翼を羽ばたかせることができる。

 イジスの写真は、物事の本質に迫ろうとする鋭さよりも、曖昧なものは曖昧なままで、一瞬のうちに芸術に転化させてしまう詩人のようなところがある。その場の状況はどうあれ、無心にシャボン玉を吹くこの男の眼つきは真剣そのものだ。幼児の遊びに思わず取り憑かれてしまった男の心は、それこそシャボン玉のように宙にふわりと浮かんで、どこかへ飛んでいってしまうのかもしれない。

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