てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

オルセー寸描(4)

2007年02月08日 | 美術随想


 モネのことをずっと考えてきた。印象派の代表選手といわれるモネのことを。

 古今東西の画家の中でも、モネほどたくさん観た画家はいないかもしれない。モネの絵をわざわざ訪ね歩くことをしないでも、ごく普通に展覧会にかよっていると、必ず何枚かはモネが混じっている。日本各地の美術館に所蔵されているから、ということももちろんあるが ― なかでも京都の大山崎山荘美術館にある数点の『睡蓮』は、ぼくが繰り返し会いに出かけるお気に入りのものだ ― 印象派や近代フランス絵画を特集した展覧会になると、モネは欠かすことのできない構成要員になっている。

 そうやってモネの絵を観つづけるうち、モネを「印象派」という狭い囲いに押し込むことに疑問が生じてきたのも、あるいは当然のなりゆきだったかもしれない。彼は確かに一時期、印象派を体現する絵画を描いたかもしれないけれど・・・。

                    ***

 ものの本を読むと、印象派の技法の代表的なものとして「色彩分割」などということが書かれている。絵の具を混ぜることをしないで、原色のままの絵の具をキャンバスの上に並べ、それが観る人の網膜の中で混ざることによって、かつてない明るさを獲得したというのである。異なる色をどんどん混ぜていくと、限りなく黒に近づいていくからだ。モネは自分のパレットから黒を追放した、などという文章を読んだこともある。

 しかし「印象派」の名の起こりとなった『印象、日の出』をよく観てみると、色が混ざっている箇所がある。それはパレットの上であらかじめ混ぜられたのではないかもしれないけれど、キャンバス上で色と色とが重なり合い、“明るさ”よりもむしろ“深み”を表現し得ているように思われる。それに加えて、明け方の海に浮かぶ船のシルエットが、じつに黒々と塗られていることは、誰でも知っていることであろう。

 つまり印象派の原点と、学者たちによる印象派の定義とは、ぼくの目にはどうしても食いちがって見えてしまうのだ。教科書どおりには、ものごとは運ばないのである。

                    ***

 『アパルトマンの一隅』(上図)という絵は、今度の展覧会で初めて知ったのだったが、これまで観てきたいかなるモネの絵とも異なっていた。「これがモネなのか」と、ぼくは心の中で叫ばざるを得なかった。

 屋内の情景を描いているということが、モネにしてはまず変わっている。シンメトリックな構図も、モネにはあまり例のないことだ。派手に彩られたカーテンと、大きな壺に生けられた植物とが、まるで舞台の幕のように画面を取り囲んでいるが、これも珍しい。画面全体が、古典的な遠近法にのっとって描かれたように、整然と構成されているのである。

 一見すると、モネがいわゆる印象派に到達する前段階の絵のような感じもする。しかし実際には1875年の作品で、その前の年に印象派展はもう始まっているのだ。だが、あの奔放自在な『印象、日の出』に比べて、この絵はまことに手堅く、まるで建築か何かのように、がっちりと組み上げられているではないか?

 部屋の床板の上には、イエローからブルーへの見事なグラデーションが描き出されている。暖色から寒色へと移り変わる色彩の中に、途中から窓の反映が加わり、まるで床をワックスで磨き上げたように、不思議な光沢を放って見える。そしてそこに、モネの長男ジャンが、なかばシルエットとなりながらこちら向きに立っている。これらの素晴らしい色のハーモニーが、「色彩分割」によって生み出されたのでないことは、おそらく間違いないであろう。そこには丁寧に絵の具が塗り重ねられ、えもいわれぬ“深み”をたたえているのである。

                    ***

 『アパルトマンの一隅』で、奥のテーブルの脇に腰掛けているのは、モネの妻カミーユであるとされている。この絵はつまりモネの自宅を描いたもので、いわばプライベートな題材を取り上げているわけだが、技法的にはこれまでみてきたように、よく考え抜かれ、作りこまれた作品である。画家としての矜持が透けて見えるといったら、いいすぎだろうか。

 カミーユといえば、以前のオルセー展の際に、『死の床のカミーユ』(下図)を観たことが忘れられない。ここでモネは、カミーユの遺骸を残酷なまでに率直に描き写している。



 これが画家の業かといわれれば、そうなのかもしれない。しかしこの絵は、いわば色彩と筆触だけのかりそめの世界であって、先ほどの絵のようにがっちりと構成されてはいない。モネは亡き妻を前にして、あれこれ構図を練られるような人間ではなかった。彼は悲しみのどん底に沈みながら、この世から去っていこうとするカミーユの“印象”だけを、必死の思いで、キャンバスにとどめたのである。

つづきを読む
この随想を最初から読む


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。