てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

西村元三朗の“未来予想図”

2007年01月14日 | 美術随想


 いささか体調がすぐれないにもかかわらず、重い腰に鞭打って神戸まで出かけてきたのは、この絵がどうしても観たかったからだ。数年前に、どこかの美術館で ― それがどこだったか忘れてしまったが、おそらく今度と同じ小磯記念美術館で ― たまたまこの絵に出くわしたときのことを覚えていたのである。

 そのときには、一種いいようのない衝撃を受けたものだった。何といったらいいのか、西洋でも東洋でもない、具象でも抽象でもない、これまでついぞ見かけたことのない異様な光景が、そこにあった。ぼくはただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 振り返ってみるに、おそらく小磯良平や川西英といった神戸を代表する画家たちの作品に混じって、ぼくはその絵を観たのだったかもしれない。それはたとえば、瀟洒な神戸の街並みをゆったりと散策しているときに、いきなり宇宙基地のような得体の知れない建造物が目の前に立ちはだかったようなものだった。すべての文脈から孤立した謎の物体として、この絵はぼくの前に唐突に出現したのである。

 だが、ぼくはこの絵の作者名も題名も記憶していなかった。これが西村元三朗(もとさぶろう)という画家の『空間』(上図、神戸市立小磯記念美術館蔵)という絵であるということがわかったのは、昨年の秋から開催された彼の回顧展のチラシに、絵の写真が小さく載っているのを見つけてからである。そしてもう一度、どうしてもその絵と再会したくなったのだ。それだけでなく、西村の画業を概観することで、この摩訶不思議な絵がどうやって生まれてきたのか、その手がかりの一端でも知ることができれば、という期待を密かに抱いてもいたのだった。

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 神戸に生まれた西村は、25歳のときに小磯良平の門を叩く。人物表現に重きを置いた小磯らしく、習作時代には裸婦像や人体デッサンなども描いているが、結局彼は人物というテーマを捨て、風景画に向かっていった。といっても、彼の描く風景画は一風変わっている。西村絵画の幕開きを告げる『丘』(下図、個人蔵)を観ても、画家がすでに独自の境地に足を踏み入れていることは明らかであろう。



 これは戦後間もない、神戸の長田の景色であるらしい。しかしそこに並んだ三角屋根の家々は、現実味をいちじるしく欠いている。実際の風景を参考にしながらも、かなりの部分は画家の想像の産物なのではあるまいか。

 それだけではない。題名ともなっている背景の丘は実在したものだそうだが、「ガリバー旅行記の浮島を連想させる」と画家自身が語っているのである。それはつまりラピュータのことで、のちに宮崎駿が『天空の城ラピュタ』というアニメ映画で展開したイメージの原形であろう。いわれてみれば、なるほど似ていないこともない。

 ついでにいうと、この丘はマグリットの『ピレネーの城』(下図、イスラエル美術館蔵)にも似ているように思う。こちらは文字どおり浮島として描かれているが、これらの類似は後半生の西村元三朗の画風を展望する上で、まことに興味深い。彼の描くモチーフは、徐々に引力の支配を逃れ、天空に浮遊しはじめるのである。



 しかし、ぼくが『丘』から感じた魅力は、それだけではなかった。師の小磯良平にも、マグリットにも、あるいは西村みずからが影響を受けたと語っているデ・キリコにもないざらついたマチエールは、ぼくの渇いた心に引っかかる。一種の摩擦力のようなものが、どうしてもぼくの足を止め、絵と向き合わせるのである。

 絵の前景には、無残な瓦礫の山が積まれている。西村は空襲を受けて廃墟となった神戸の街を駆けずりまわり、瓦礫をスケッチしつづけたという。彼の絵のごつごつした感触は、そのへんに由来しているのだろう。厳しく重い現実と、少年らしい軽やかな空想とが、この一枚の絵の中に凝縮されていることに、ぼくは驚きを禁じ得ない。

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 さて、数年ぶりで『空間』と対面してみると、ぼくが覚えていたよりもずっと大きな絵だった。それにしても、これはいったい何を描いたのだろうか。ただ造形のおもしろさを追究しただけのようにも見えるが、画家自身は次のように説明を加えている。

 《人類が宇宙空間へ新しい世界を建設した世紀を記念して砂漠に記念碑を構築した。これはその完成予想図である。》(展覧会図録より)

 やや意表を突かれる内容だが、近所の丘にラピュータを思い描くほどの空想家ならありそうなことだ。しかしこの絵が1953年に描かれたということを知ってみると、その時点で人類はいかなる“新しい世界”を宇宙に建設していたのだろうか、ということが気になってくる。

 家に帰って調べてみると、驚くべきことに、世界初の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられたのは、この絵が描かれた4年後のことなのだった。画家はいったい何の“記念碑”を描こうとしたのだろうか?

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 美術館からの帰り、六甲ライナーの窓から神戸の港町を眺めていると、東神戸大橋の姿が遠くに見えた(写真)。白くそびえるH型の塔が、ぼくの頭の中で『空間』の建造物と重なる。この橋が完成したのは平成になってからのことだが、西村はまるで未来の景観を予知していたかのようですらある。そしてそのふたつのイメージが結び合わさるのは、まさにこの「神戸」という街においてであろう。



 シュルレアリスムともいわれる西村元三朗の作品世界だが、そこには「神戸」という文脈が隠されているような気がした。彼は、きたるべき輝かしい未来都市としての神戸のために記念碑を構想したのかもしれない、とぼくは考えた。


DATA:
 「西村元三朗回顧展」
 2006年10月14日~2007年1月14日
 神戸市立小磯記念美術館

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