てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

「無言館」は語る(4)

2005年08月26日 | 美術随想
 妻を東京に残して美千雄が入隊したのは、金沢市粟崎(あわがさき)の部隊だった。そこは日本海に面した今の金沢港の近くで、東京からは片道15時間ほども汽車に揺られなければたどり着けなかったそうだが、絹子は3か月間に8度も面会に通ったという。そして彼女は、用意してきた色紙に夫が絵を描くのをじっと見つめていたそうである。美千雄と絹子とは夫婦であるだけでなく、絵画を通して固く結ばれた同胞であり、師弟でもあった。

 粟崎時代の美千雄の絵手紙には、中国にいたころとは明らかな変化がある。まずその文章は、夫から妻に対するやや厳しい言い方に変わっている(だが厳しさの背後に、大らかな優しさと果てしない愛情が横たわっているのが透けて見える)。そしてもうひとつ、手紙の内容が日々の近況報告といったものから離れ、芸術論的な高みへと昇華されているのである。ぼくが本当に瞠目させられたのは、ここであった。

 みずからも日本画を学んだ絹子は、自分がしたためた絵や俳句を美千雄のもとに送った。美千雄は返信の中でそれを批評したり、ときには手放しで褒めたりしている。句の語順を入れ替えてみて、こっちの方がいいだろうなどと諭してもいる。ますます緊迫する戦局の不安をかいくぐり、東京と粟崎とを股にかけておこなわれた驚くべき“通信教育”ではなかろうか?

 終戦の前年、美千雄はフィリピンのルソン島に送られる。はるか遠く海を隔てたその地からも、妻への絵手紙は届けられた。絹子は空襲警報のたびに、絵手紙を入れたトランクと一緒に防空壕に逃げ込んだという。こうして戦後60年たった現在でも、美千雄が生きて描いた証しともいうべき絵手紙を目の当たりにすることができるのである。しかしそれを描いた画家自身が、フィリピンの山奥から還ってくることはなかった。


 これらの厖大な絵手紙を通して伝わってくるのは、戦争の悲惨さでもなければ、時代に翻弄される人間のあがきでもない。それらは驚くほど健全で、向上心に溢れている。異常だったのは大日本帝国という国家であり、実際に戦闘に駆り出されて命を落とした人々の多くは、本来きわめて真っ当な人たちではなかったか。終戦間際のフィリピンに連れて行かれても、妻とあいさつを交わすかのように絵手紙を送りつづけた前田美千雄。彼のような善良な人物が、ある日突然この世からいなくなってしまうという事実こそが、戦争というもののむごたらしさ、人間同士が殺しあうという“図式”が持つ宿命的な不条理ともいうべきものを、容赦なく浮き彫りにしているように思われる。

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