てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

京都市美術館の名品たち(7)

2012年02月15日 | 美術随想

菊池契月『少女』(1932年)

 菊池契月の『少女』は、ぼくがとりわけ気に入っている一枚である。契月という画家は、日本画壇ではどういう位置づけがされているのか知らないが、ぼくにはこの『少女』の作者というだけでじゅうぶんなのだ。

 今から6年前にぼくは「菊池契月と少女たち」という記事を書いているが、今それを読み返してみても、思いがほとんど変わっていないことに驚く。人間はだいたい6年も経つとかなり大人びてしまう人もいるし、いいかえればだんだん純粋さを減じてくるということでもあろうが、絵のなかの少女はいつまでもけがれることなく、その美しい姿をとどめてくれることだろう。

 ところで、この少女の正体は誰なのか。以前にも、この疑問を書き付けた。彼女はどうやら画家と血がつながっているわけではないようだが、娘のように可愛がってもらった人だという。ただ、そこから先は何もわからない。2年前に開かれた「菊池契月展」の図録にも、モデルに関しては「同時代の若い女性」とあるばかり。

 ぼくには正直にいって、彼女の素性があぶり出されてくるのを少し恐れる気持ちもある。ちょっと筋ちがいのたとえをすれば、モーツァルトの『魔笛』には「なんと美しい絵姿」というアリアがあって、主人公が絵に描かれたヒロインの美しさをひとしきりたたえて歌う。けれどものちに本物のヒロインが出てくると ― もちろん美形の歌手が演じてはいるのだが ― さっきあんなに絶賛していたほどではないではないか、という邪念が入ってきてしまうのだ。美しい絵姿は、最後まで絵のままのほうがいいのかもしれない。

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 ところでこの少女のポーズは、いささか変わっている。体育座りのようだ、と前にも書いたが、意識的にポーズをとっているようには思われない。彼女のそぶりがいかにも自然だからである。

 けれども、ここで時間のある人は、彼女と同じポーズを実際にやってみてほしい。ごく普通の体育座りは、手がちょうど膝のところにくる。安定した姿勢である。

 けれどもこの絵では、手が膝よりだいぶ下のほうにあるようだ。そこで背をかがめて腕をのばすと、今度は足がつりそうになってくる。この少女は、思ったよりハードな格好を強いられていることがわかるだろう。

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参考画像:エドゥアール・マネ『草上の昼食』(オルセー美術館蔵)の部分を左右反転した画像

 もうひとつ、このポーズから連想される女がいる。マネの『草上の昼食』で、男たちと談笑している女性がそれだ。けれどもこの女はあられもない姿をしており、肌にもしまりがなくて、それほど若くもないことがわかる。この絵が不道徳だとして、発表当時ごうごうたる非難を浴びたことはよく知られる話である。

 それにしても気になるのは、菊池契月がこの『草上の昼食』を知っていたかということだ。実は『少女』が描かれる10年ほど前、契月はヨーロッパ各地を歴訪している。パリにも足を伸ばしていて、ルーヴル美術館を見物し、ルノワールの展覧会を観たという記録もあるらしい。

 この当時、まだオルセー美術館はなかったが、『草上の昼食』はどこに所蔵されていたのだろう。もし契月がその絵を ― 実物でなくても、写真などを ― 観る機会があって、それを頭において『少女』を描いた可能性というのはないのだろうか。

 もしそうだとしても、菊池契月は、マネが描いた脂ぎった女とは正反対の女性像を作り出そうとしたにちがいない。少し目線を落とした『少女』の凛とした奥床しさは、無遠慮にこちらを見据えるヴィクトリーヌ・ムーラン ― こちらのモデルは名前もわかっている ― と比べたとき、余計に美しく、高貴にすら感じられるのである。

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