
鈴木其一『朴に尾長鳥図』
江戸琳派の重鎮、酒井抱一(ほういつ)の弟子にあたる鈴木其一(きいつ)の展示も、とても充実していた。かつて百貨店などで開かれた細見コレクションを紹介する展覧会では、抱一よりも其一の作品のほうがたくさん陳列されたほどだ。ともすると師の陰に隠れてしまいがちな其一だが、改めて眺めてみると感性の新しさに驚かされる。明治以降の日本画と比べてみても、古さがない。
といっても、われわれが若冲を再発見したときに感じたような斬新さや、個性のどぎつさのような、かつて辻惟雄(のぶお)氏が総括した「奇想の画家」とはちがう。現代に暮らしている日本人にも“和”の美に触れる喜びを優しく伝えてくれる、王道を進むタイプの作風だといおうか。
たとえば忙しい仕事の合間の休日、ふと訪れた寺院の境内をぶらぶらしながら草木に眼をやり、鳥のさえずりに耳を傾けているうちに、身内に眠るDNAの奥底から得体の知れない親和力がふつふつとわいてくるといったたぐいの喜びを、彼の絵は味わわせてくれるだろう。なおぼくは、2008年の没後150年に際し、このブログでオマージュを捧げたことがある(「五十点美術館 No.15」参照)。
若冲や蕭白といったアウトサイダーが脚光を浴び、彼らの展覧会が繰り返し開かれるなかで、日本美術の神髄を守り通した其一の存在がさほど注目されないのはあまり平等とはいえないのではないか、とぼくはつねづね疑問に思ってきた。その鬱憤を、細見美術館のコレクションはじゅうぶんに晴らしてくれるのである。
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『朴に尾長鳥図』は、なかでも屈指の一枚だ。左下から右上へと伸びる枝と、尾長鳥の細長い体が交差し、鋭いX字を描く。シンプルかつ先鋭的な構図ではないか。
そして、朴の葉に施されたたらしこみの鮮やかさはどうだろう。グラデーションの振幅の広さが、葉裏を見せてゆったりと広がる鷹揚な葉の風格と相まって、まるで手で触れられそうな存在感を醸し出している。あまり眼にすることのない朴の花は、まことに堂々と、臆することなく咲き、勢いを削がれた尾長鳥がすごすごと後ずさりしているようにも見える。
前に紹介した中村芳中のように、植物と鳥との珍妙な取り合わせがユーモアを呼ぶ絵とはちがう。どちらが主でも従でもない、本来あるべき共存のあり方とでもいおうか。自然とともに生きることの困難に直面している現代人にとっては、この尾長鳥のように大柄ながらも一歩引いて、みずから花の引き立て役に回っているさまは、多くを教えてくれるようである。
鈴木其一の人物像についてはよく知らないが、洒落の通じない野暮な男だったのではないか、という気がしないでもない。だからこそ、人との交流よりも植物との対話を重んじ、それが数々の花鳥画に結実したのかもしれない。われわれも花鳥画を観る際には、連れとペチャクチャしゃべりながらではなく、自然と向き合うように静粛な心で対面したいものだと思った。そのほうが、絵から発散される無言のメッセージを貪欲に享受することができるにちがいない。
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この日は運がよかったのか、みどころの多い展覧会にもかかわらず、静かな環境で過ごすことができた。今年初の京都詣では、快い、しかしどこか物悲しくもある余韻を、ぼくの頭に響かせるようだった。
(作品はすべて細見美術館蔵)
(了)
DATA:
「江戸絵画の至宝 ― 琳派と若冲 ―」
2013年1月3日~3月10日
細見美術館
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