てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

画家として死ぬということ(10)

2007年08月22日 | 美術随想


 曽宮一念の「『敦盛の首』から『白い舟』まで」には多くの画家の名前が次々と登場し、曽宮の交流の広さを思い知らされるが、その中に片多徳郎(かただ・とくろう)の名前が不意に出てきたのでぼくは驚いた。といってもこの画家のことを知る人は多くはないだろうし、ぼくもこのたびの展覧会ではじめて知った人物である。ぼくが最初に観た片多の絵は、彼の最後の作品だったわけだ。

 『風景』(上図)が、すなわち片多徳郎の絶筆である。だがこの絶筆は、他の画家とは少々ちがった意味合いをもつだろう。なぜなら片多はこの絵を描いた数か月後、みずから命を断っているからである。

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 この知られざる画家について何の知識も持ち合わせていないぼくは、曽宮の回想をもとに人物像をたどっていくしかない。それによると、ざっと次のようだ。

 《片多徳郎は私が美校(引用者注・東京美術学校のことで、東京藝術大学美術学部の前身)入学の年に卒業していた。(略)東京の落合の私の筋向かいに片多が越して来た。私たちは旧知のように気軽に話せた。

 榛名湖から帰った彼を訪ねると、日赤に入院して不在であった。これまでにもアルコール中毒の治療で既に入退院を繰り返していた。彼の家で飲ませてくれないと私の家へ来た。悪いと知りながら一杯飲ませた。妻や息子は苦労していたらしい。》
(前掲同書、以下同じ)

 しかし、片多との別れは唐突に訪れる。

 《ある朝、新聞を見ると大見出しで「片多徳郎画伯縊死」の記事に驚いた。内容は数日前、一人家を出て不明であった片多が名古屋市外の宿に一泊した翌日夜、寺の墓地で縊死体として発見された。その墓地に彼は死に場所を探していたのであろうか。二人の幼女がツバキで花輪を作っているのを見ていたと近所の人が語った。彼の娘を思い出したのであろう。牧野虎雄は「一週間前、久しぶりに片多が来た。分かってくれそうな友人にあいさつをしに来たのだろう」と暗然と言った。》

 ちなみにこの牧野虎雄の絶筆も、今回の展覧会に出品されていた。互いに友人同士だったであろう曽宮、片多、牧野の絶筆が、時を経て一堂に会したわけだ。彼らは皆、美校の出身生である。まるで絶筆が同窓会を開いたような、不思議なめぐり合わせであった。

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 ところでこの『風景』という絵は、アル中で10回以上も入退院を繰り返した男の絶筆である。ということになると、どうせこの絵も酒をあおりながら描いたのだろうという人があるかもしれないが、ぼくにはそうとは思われない。観る者をうすら寒くさせるような縹渺たる景色は、片多徳郎の眼に映じた容赦ない現実の姿なのであろう。この寒々しい現実からのがれるために、彼はまたアルコールの助けを借りるのである。

 そういえばこの風景画は、左から右へと大きく傾斜している。ユトリロはアル中の治療のために絵を描くことをはじめたというが、それでも彼の描くパリの街並みは不自然に傾いている。晩年の佐伯祐三が描いたパリやモランの風景も、あるいは椅子に座った郵便配達夫の姿でさえも、大きく傾いている。

 曽宮一念は、佐伯とも交友があったらしい。曽宮は亡くなる直前の佐伯から一枚の手紙を受け取っている。そこには「少し体の具合が悪いので遊んでいます」とだけ書かれていたという。知り合いの医者が欧州の視察に行くというので、曽宮は佐伯を見舞うように依頼する。しかし着いたときには、佐伯はもう死の床にいた。曽宮によれば死にざまは次のようだったそうだが、この一節はぼくを非常に驚かせた。

 《年譜では精神病院で死んでいるが、公園の樹木で縊死したと言われる。》

 真偽のほどはわからないが、片多徳郎や佐伯祐三が描いた晩年の風景画が、とても立っていられないほど傾いていることは共通している。そしてその絵が、画家として生きることの困難を切々とうったえてくるというところも、やはり共通しているのである。

(大分県立芸術会館蔵)

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