てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

フェルメールと、その他の名品(14)

2013年01月28日 | 美術随想

ピーテル・クラースゾーン『ヴァニタスの静物』(1630年)

 近ごろの我が国では、写実絵画がちょっとしたブームを呼んでいるようだ。まるで写真みたいに ― というのは決して褒め言葉ではないと思うが、どうしてもそういいたくなってしまう ― 極端なまでのリアリティーで描かれた絵のことである。

 もちろん、写実絵画というのは以前からあった。たとえばこのブログでも、磯江毅や犬塚勉といった、すでに故人となった画家を取り上げたことがあるが、彼らの作風は明らかに写実絵画に属する。フェルメールも、作品によっては、人間の力でできるかぎりの写実を極めようとした画家だったといえなくもないだろう。

 だが、17世紀オランダの静物画を観ると、まさにめくるめくような写実の世界が展開されているのに驚く。宗教画や人物画をはるかに超越して、徹底的に微細な描写にこだわり抜き、平面上に三次元の小宇宙を現出させようとしたその執念は、ある意味ではやや狂気じみているのではないかと思ってしまう。

 そして現代日本の写実画家のなかにも、オランダ絵画に出会うことによって写実に眼覚めた、という人がかなり含まれているような気がするのである。それはどういういきさつでか、オランダに旅行したのか、日本で開かれた展覧会を観たのかは知らないが、学生のときに生まれてはじめて油絵の具を手にしたときの先入観を覆してくれるような新鮮な驚きが、そういった絵に含まれていることはたしかだろう。

                    ***

 クラースゾーンの『ヴァニタスの静物』は、生けるものはいつか消えてなくなる、といった虚しさを表現したとされている。ちなみにヴァニタスとは、“生のはかなさ”とでもいった意味で、西洋絵画を観るには必ず知っておかなければならないキーワードのひとつだ(ぼくは昔、若桑みどり氏のテレビの講座で教わった)。

 もちろん、この絵を観て、リアルな超絶技巧に驚くだけというのもわるくない。たとえば頭蓋骨 ― その向こうには腕の骨のようなものも見えている ― やボロボロになった本の破れかけた質感は、別にヴァニタスという言葉を知らなくたって、華やかなものはいずれ滅びるという無常観へとわれわれをいざなう。

 ただ、その一方で、若者のファッションの一部として、街中にドクロが蔓延していることも事実である。若い母親がベビーカーを押して歩いているのをふと見ると、赤子がドクロの柄の産着にくるまれていたりして驚くことがあるが、この人は新生児に死体の模様の服を着せておいて何とも疑問に思わないのだろうか、と首をひねりたくなる。

 そういう世代の人は、周囲から“死”というものが隔絶された世界に生きているとしかいいようがない。せいぜい、映画やドラマのなかで人が殺されたりするフィクションとしての死しか知らないのだろう。そういう人は、この絵にように写実的に描かれた頭蓋骨を見て、一度震え上がっておいたほうがいいのである。

 ちなみに現代日本の写実的な静物画は、なぜかモチーフが丁寧に並べられたものが多い。まるでアンティークショップの一角を覗いてみたような雰囲気なのだ。このクラースゾーンのように、頭蓋骨が斜めを向き、口先には今飲み干したばかりといわんばかりにワイングラスが転がり、さらに骸骨が自分で息を吹きかけたかのようにランプから細い煙が立ちのぼるという演出は、亡きひとりの人格がほのかに浮かび上がってくるようで、怖いことこのうえない。そこには観念としての“ヴァニタス”だけではなく、死の重みといったものも描かれているように思える。

                    ***

 なお磯江毅の最晩年の自画像にも『バニータス』という作品があることを付記しておく(彼はオランダではなく、スペインで学んだ人であるが)。その絵にも、頭蓋骨とボロボロになった本が描かれていたのだった(「写実を超えたリアリズム ― 磯江毅の挑戦 ― (2)」参照)。

つづきを読む
この随想を最初から読む


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。