てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

フェルメールと、その他の名品(15)

2013年01月29日 | 美術随想

カレル・ファブリティウス『ごしきひわ』(1654年)

 「ごしきひわ」という鳥の名を聞いてピンとくる人は、鳥類を愛する人か、クラシック音楽を愛する人か、どちらかだろう。ぼくは後者だ。ヴィヴァルディの有名なフルート協奏曲に、『ごしきひわ』という標題のついたものがあるからである。けれども、その鳥がどんな姿をしているのか、この絵を観るまでは知らなかった。

 そして、正直にいうと、少しがっかりした。“ごしき”というわりには、大変地味な色合いで、雀とあまり変わらないような気がしたからだ。いや、実のところ、350年余り前に描かれた絵の具が色あせてしまって、こういう状態になってしまったようである。

 しかも、このごしきひわは、人に飼われている。いや、もっと正確には、とらえられている印象である。鳥の片足には小さな鎖がつけられ、その先端には鉄の輪っかがついていて、まるで知恵の輪のように、円形のとまり木に通されている。多少の自由は利くかもしれないが、遠くへ飛び去ることはできない。人間でいえば、足枷をはめられているようなものだ。

 けれどもこの小鳥は、そんなおのれの運命も知らぬげに、つぶらな瞳をくるくるさせて、静かにとまっている。青い箱のようなものはえさの入れ物らしく、ご飯の時間がくるのをおとなしく待っているところであろうか。

                    ***

 ところで、この絵が「静物画」というくくりで展示されていたのは、どう考えても納得しがたい。これは静物ではなくて、れっきとした生き物の絵である。

 それに、前回取り上げたように雑多なモチーフ ― それが“ヴァニタス”というテーマで一貫しているとはいえ ― の詰め込まれた絵のあとで『ごしきひわ』を観ると、その異様なまでのシンプルさが際立つ。鳥とえさ箱のまわりはほとんど白い壁で、それが余白のように見え、まるで日本画を眺めているような錯覚も覚える。しかしその実、よくよく眼を凝らしてみると、漆喰を模したと思われる白壁の質感にも細心の注意が払われていることがわかる。

 これも、いわゆる写実絵画として一流のものだし、だまし絵の一種と考えてもいいだろう。それにしても、繋がれた小鳥だけをモチーフに据えた西洋画というのは、かなり珍しいのではないだろうか。小さな絵だが、よほど自信作だったのか、ファブリティウスは画面の下のほうに、ちょっと目立ちすぎるぐらいの大きさで自分の署名と年記を書き入れた。

 しかしその年記が、自分自身の没年になろうなど、彼は夢にも思わなかったにちがいない。1654年、ファブリティウスがアトリエを構えていたデルフトで火薬庫の大爆発事故が起こり、彼もその巻き添えになって命を落とす。32歳の若さだった。アトリエも焼けてしまい、現存する作品は10点ほどしかないという。今となっては、フェルメールよりもずっと希少な画家なのだ。

 さて、ここから先は戯れ言のようなもの。事故当時、この絵がどこに収蔵されていたかは知らないけれど、足枷をはめられて羽ばたくことのできないごしきひわが、よくぞ生き残ったものだと思う。この可憐な一羽の小鳥は、かつてデルフトにファブリティウスという有能な画家がいて、レンブラントに師事し、フェルメールへの橋渡しをする重要なポジションにいたのだということを後世に伝えるために、われわれの眼の前にあらわれたのではないかという気さえするのである。

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