
コンスタン・トロワイヨン『ガチョウ番』(1850-1855年頃)
トロワイヨンは、バルビゾン派の中核をなすひとりだ。なかでも、動物の絵が達者なことで知られている。
『ガチョウ番』はどちらかというとざっくりした作品で、あまり完成度が高いとはいえない。けれども、そこに描かれているガチョウは生き生きとしており、そのことにまず感心した。流派とか、技法とかいったことを超えて、彼が動物に共感し、喜びをもって描いているのがよくわかる。

参考画像:鈴木其一『鵞鳥図屏風』(部分、江戸後期、細見美術館蔵)
前にも一度取り上げた鈴木其一(きいつ)の絵をここでもちだすのは唐突かもしれないけれど、どうしても比較してみたくなってしまう。同じガチョウを描いても、洋の東西でこれほどちがうことの証明になるような気がするからだ。前回のミレーの絵でもそうだが、西洋画では動物が家畜として登場してくるのに対し、日本の花鳥画では、基本的に自然界の情景のひとつとして描かれる。そこに人間が登場することは、ほとんどない。
其一ももちろん、生きている鳥をよく観察して描いたのだろうが、同じ生き物としての共感が芽生えたかどうかは別である。トロワイヨンのガチョウが、人の手によって統率されているにもかかわらずハツラツとした生命力を感じさせるのは、人間とガチョウとの距離の近さというか、関係の深さにあるのだろう。
群れをなして歩きながら、互いに干渉もせず、思い思いのほうを向いているトロワイヨンのガチョウたち。たとえば休日の都会を散策するホモ・サピエンスという種族にも、似たような光景が垣間見られるように思うのは気のせいだろうか。
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クロード・モネ『小川のガチョウ』(1874年)
同じ展覧会で、ガチョウをモチーフにした絵がもう一枚あった。モネの『小川のガチョウ』は、ちょうど印象派の最初の展覧会が開催された年の作品である。
後年、睡蓮を執拗に描きつづけたように、モネは水との親和性がとても高い画家だ。ここでも小川が舞台になっているのだが、水そのものよりも、水面のさざ波だけを描くことによって表現している。とても野心的だが、ぼくにはちょっと理解しにくい試みだった。
それはさておき、小川に浮かんでいる数羽のアヒルは、眼などの細部が大胆に省略された姿で描かれている。いってみれば、自然のなかのアクセントの一部としてとらえられているのであろう。背景の住居の前を横切る人物もそうだし、少しさかのぼれば『印象・日の出』に描かれたボートの上の人影だって、ディテールが極限まで省かれている。
人物の個々の表現に重きを置いたルノワールと袂をわかち、モネが風景の総合的な把握へと進化していくのは、印象派が誕生した時点ですでに予告されていたことなのだった。
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