
ヤン・トーロップ『海』(1899年)
改めて考え直してみると、ゴッホとは“大地の画家”だったといえるのではないか。
もちろん、ゴッホには水辺を描いた絵がないわけではないし、このたびの展覧会にも運河を描いたデッサンが出品されていたが、彼にはやはり広々とした麦畑がいちばん似合うような気がする。いわゆる農民画家であるミレーを慕っていたことからしても、ゴッホには土や草の匂いがぴったりする。
だとすれば、スーラやシニャックといった生粋の点描画家が海や川の風景を好んで取り上げたのに比べ、ゴッホが点描という技法だけにおさまりきらなかったのも、むしろ当然かもしれない。繊細な波のきらめき、ぽつんと水に浮かぶ船の姿、辺り一帯に満ちる水蒸気といったようなじめついた要素は、ゴッホにはあまり似つかわしくないモチーフなのである。
ところがゴッホと同じオランダ人であるトーロップは、少年期を島で過ごしたせいか、海が見せる多彩な表情を熟知していたのではないかと思う。海岸から沖へと移り変わる色の諧調を見事に描き出した『海』を観ても、そのことがよくわかる。絵筆でおかれた点のひとつひとつが、まるで水の粒子の集まりのようになって、夢見るような風景を現出させている。静謐ではあるが、遠くから波のざわめきが聞こえてくるかのような、“ここではないどこか”へ連れ去られたような錯覚にいざなわれる。
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アンドレ・ドラン『コリウール港の小舟』(1905年、大阪新美術館建設準備室蔵)
それとは逆に、寝た子をも起こすような強烈さを発散させるのは、ドランの『コリウール港の小舟』だ。
この絵を点描画に分類するのは、無理がある。先達たちが試みた“視覚のなかで絵の具の色が混ざって見える”ことなど、はじめから意図していない。ここには、とうてい調和し得ない原色の乱舞があるばかり。同じ海辺の情景を描いても、トーロップとこうもちがうのか、と驚かされる。
ただ、のちにドランが明るい原色を捨て、激しい筆触も捨てて、古典的な絵画へと回帰していくプロセスが、ぼくには今ひとつ理解できない。ドランの絵は、観れば観るほど謎が深まる。こんな画家は、なかなかいるものではない。
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