
八木一夫『ザムザ氏の散歩』(1954年、個人蔵)
以前、八木一夫の大規模な回顧展を観たのも、この京都国立近代美術館だった。300点もの焼物が陳列された会場の眺めは圧巻だったし、陶芸家というのはずいぶんたくさんの作品を残すものだ、という気もした。あれからもう9年も経つのか。
しかし、それだけの歳月の流れに堪えられる強さを、八木の作品はもっていると思う。ただ斬新なだけではないし、古くなるにつれて角が取れてしまうような脆弱なものでもない。陶芸というのはそもそも、大変弱い素材でできているにちがいないが、それを力わざで乗り越えてみせるところが、彼の作品のすごいところである。
『ザムザ氏の散歩』では、ろくろで成形したかたちを垂直に立てることによって、八木は“用の美”から抜け出した。いわば、何の役にも立たない焼物が出現したのだ。そこには、京焼の陶工であった父のもとを離れ、文字どおり散歩するごとく自力でさまざまな様式を展開させていきたいという彼の野心が垣間見える。
ただ、果敢な親離れの宣言にしては、この作品の足取りはあまりに頼りない。まるで、生まれてはじめて歩きはじめた赤子のようである。カフカの『変身』のなかで、ある朝起きてみると巨大な虫に変身していたザムザが苦労して部屋のドアを開けようとし、そして失敗に終わるくだりがあったように思うが、まさにそんな場面を見ているときのような危なっかしさを覚える。
***

八木一夫『二口壺』(1950年、京都国立近代美術館蔵)
実は、八木一夫自身の歩みも、それと同じように危なっかしいものではなかったのか、という思いをぼくは捨てきれないのである。これまで誰ひとり歩いたことのない道を、彼は確信をもって進んでいったのだろうか。それとも、余人には知りようのない試行錯誤の連続だったのだろうか。
彼は前衛陶芸を作りつづける一方で、伝統的な陶芸の重力のようなものから離れることはできなかったのではないかと思う。生涯にわたって壺や茶碗を作ることをやめなかった、という事実にもそれはあらわれているが、いいかえれば“土”という素材に魅せられ、絡めとられた彼の一生が、何よりもそれを物語っている。
ぼくは焼物の技法には詳しくないが、ミロのような絵画的装飾を施したもの、素焼きのような土肌を露出させたもの、荘重な黒陶を用いた一連の作品など、それらの八木の仕事を通じて、“土”が多彩な変容を遂げるさまをみることができる。そして同時に、八木がいかに“土”に執着していたかを知らされることにもなる。
清水九兵衛という人物は、焼物を手がける一方で大掛かりな金属のオブジェをたくさん残した。陶芸には手の届かないジャンルを自覚し、そのためには潔く“土”を捨てることができたのだ。だが、そういう発想は八木にはなかった。彼はあくまで“土”から発想し、これまで誰も観たことがないような作品に結晶させることで、“土”のもつ世界を飛躍的に広げた。
それはたとえば、墨という単一の顔料のみを用いて、さまざまな表現を繰り出してみせる書道家の姿を彷彿とさせるのである。しかし彼にとって“土”という素材は、最後まで自在に扱うことの難しい厄介なものだったのではなかろうか?
晩年の八木には『いつも離陸の角度で』という象徴的な題がつけられた作品がある。そうでもしないと、容赦ない引力に引っ張られ、古めかしい陶芸の世界に舞い戻ってしまうとでもいうのだろう。常に上昇をやめることなく、誰も考えつかなかった「オブジェ焼き」を生み出しつづけたその熱意と持続力の底には、やはり陶工の血が綿々と流れていたのではないかという気がする。
つづきを読む
この随想を最初から読む