松本竣介『建物(茶)』
何の気なしに本屋をのぞいてみると、オールカラーで図版の豊富な新潮社の「とんぼの本」の一冊として、「洲之内徹 絵のある一生」が刊行されているのを見つけた。ぼくは片時も迷うことなく、中身も見ずにレジにその本を持っていき、買ってしまった。
だが、ページを少しめくってみただけで、まだ読んではいない。ぼくの部屋の一隅には、かつて文庫化されたもの、あるいは古本屋で偶然手に入れたものを含めて、洲之内の随筆「気まぐれ美術館」のシリーズがすべて置いてあるが、それもまだ半分ほどしか読んでいない。ぼくにとって洲之内の本は、おいそれと手を出すことのできない、パンドラの箱のようなものだ。
なぜかというと、美術随想を書きはじめたのが、ほかでもない洲之内徹の影響だったからである。今ではすでに彼のもとから離れ、自分なりのやりかたで日夜書き継いでいるつもりだが、ここでまた洲之内の文章を読んでしまうと、「なんだ、ぼくはまだこの程度しか書けていないのか」と幻滅するのが眼に見えるような気がするのだ。
***
洲之内徹がもっとも愛情を込めて、ときには厳しい批判を込めて、繰り返し書きつづけたのが松本竣介という画家のことだった。ぼくは洲之内の本をはじめて読んだ10年ほど前に、彼の熱意に引きずられるようにして竣介の絵にはまり込んだ。とはいっても実物を観る機会にはなかなかめぐまれず、画集を繰り返し眺めたり評伝に眼を通したりするだけだったが。
でも、さまざまな展覧会を辛抱強く観つづけていると、運よく松本竣介の絵に遭遇する機会がおとずれる。大原美術館で『都会』という絵に出くわしたのを皮切りに、これまで10点ほどの絵と対面してきたのではないかと思う。
彼には人物画もあり、風景画もあり、それらが渾然一体となった奇妙な構想画のようなものもあるが、ほとんどすべてに得体の知れない寂寥感がただよっている気がするのは、13歳のときに病気で聴覚を失っていたせいかもしれない。一方で、時代が戦争へと猛スピードで突入しつつあった1941年、雑誌に「生きてゐる画家」と題した文章を発表し、ひとりの芸術家としてファシズムに抗議してもいる。
お気に入りのモチーフだった横浜の月見橋が爆撃を受け、見るも無残な廃墟になってからも、彼はその橋を冷静に見つめ、変わり果てた姿をそのまま描いた。声のない戦争の告発だった。
***
昨年、画家の絶筆ばかり集めた展覧会のなかで、思いがけず松本竣介の最後の作品と出会った。それが『建物(茶)』である。彼は36歳の若さで病いに倒れ、帰らぬ人となった。
彼の親友で彫刻家の舟越保武は、この絵について「竣介はたしかに絶筆として描いた」と述べている。「これから彼が入って行く、白い建物と、その暗い入り口を、竣介は最後の力を燃やして描き上げた」というのである。
画家自身が自分の死に場所として描いた、この世とあの世の狭間に建つような教会の絵は、ぼくの心を激しく揺すぶった。このなかに竣介がいるのか、と思うと、まるで彼の墓前に立ったみたいに、ぼくの心のなかから声にならない言葉があふれ出た。耳の聞こえない竣介にも、その言葉は伝わっただろうか。
***
「洲之内徹 絵のある一生」のなかに、自分が経営していた画廊の椅子に腰かける晩年の洲之内の写真があった。彼のそばには絵画が入っているらしい厚紙の箱がいくつか立てかけてあるが、そのなかのひとつに「松本竣介 白い建物」と書かれている。白い建物とは、あの教会のことではないだろうか。
愛する松本竣介の絵をかたわらに置いて、洲之内は屈託のない顔で微笑んでいた。絵を描く人と、それを観る人との密度の濃い関係が、そこにはあるようだった。
(東京国立近代美術館蔵)
参考図書:
「アサヒグラフ別冊 美術特集 松本竣介」朝日新聞社
※追記:調べたところ、『白い建物』は宮城県美術館に所蔵されていて、『建物(茶)』とは別の絵であることがわかった。ただ写真で観るかぎり、『建物(茶)』のほうが鮮やかな白さが眼に残る絵になっている。
五十点美術館 No.4を読む
何の気なしに本屋をのぞいてみると、オールカラーで図版の豊富な新潮社の「とんぼの本」の一冊として、「洲之内徹 絵のある一生」が刊行されているのを見つけた。ぼくは片時も迷うことなく、中身も見ずにレジにその本を持っていき、買ってしまった。
だが、ページを少しめくってみただけで、まだ読んではいない。ぼくの部屋の一隅には、かつて文庫化されたもの、あるいは古本屋で偶然手に入れたものを含めて、洲之内の随筆「気まぐれ美術館」のシリーズがすべて置いてあるが、それもまだ半分ほどしか読んでいない。ぼくにとって洲之内の本は、おいそれと手を出すことのできない、パンドラの箱のようなものだ。
なぜかというと、美術随想を書きはじめたのが、ほかでもない洲之内徹の影響だったからである。今ではすでに彼のもとから離れ、自分なりのやりかたで日夜書き継いでいるつもりだが、ここでまた洲之内の文章を読んでしまうと、「なんだ、ぼくはまだこの程度しか書けていないのか」と幻滅するのが眼に見えるような気がするのだ。
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洲之内徹がもっとも愛情を込めて、ときには厳しい批判を込めて、繰り返し書きつづけたのが松本竣介という画家のことだった。ぼくは洲之内の本をはじめて読んだ10年ほど前に、彼の熱意に引きずられるようにして竣介の絵にはまり込んだ。とはいっても実物を観る機会にはなかなかめぐまれず、画集を繰り返し眺めたり評伝に眼を通したりするだけだったが。
でも、さまざまな展覧会を辛抱強く観つづけていると、運よく松本竣介の絵に遭遇する機会がおとずれる。大原美術館で『都会』という絵に出くわしたのを皮切りに、これまで10点ほどの絵と対面してきたのではないかと思う。
彼には人物画もあり、風景画もあり、それらが渾然一体となった奇妙な構想画のようなものもあるが、ほとんどすべてに得体の知れない寂寥感がただよっている気がするのは、13歳のときに病気で聴覚を失っていたせいかもしれない。一方で、時代が戦争へと猛スピードで突入しつつあった1941年、雑誌に「生きてゐる画家」と題した文章を発表し、ひとりの芸術家としてファシズムに抗議してもいる。
お気に入りのモチーフだった横浜の月見橋が爆撃を受け、見るも無残な廃墟になってからも、彼はその橋を冷静に見つめ、変わり果てた姿をそのまま描いた。声のない戦争の告発だった。
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昨年、画家の絶筆ばかり集めた展覧会のなかで、思いがけず松本竣介の最後の作品と出会った。それが『建物(茶)』である。彼は36歳の若さで病いに倒れ、帰らぬ人となった。
彼の親友で彫刻家の舟越保武は、この絵について「竣介はたしかに絶筆として描いた」と述べている。「これから彼が入って行く、白い建物と、その暗い入り口を、竣介は最後の力を燃やして描き上げた」というのである。
画家自身が自分の死に場所として描いた、この世とあの世の狭間に建つような教会の絵は、ぼくの心を激しく揺すぶった。このなかに竣介がいるのか、と思うと、まるで彼の墓前に立ったみたいに、ぼくの心のなかから声にならない言葉があふれ出た。耳の聞こえない竣介にも、その言葉は伝わっただろうか。
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「洲之内徹 絵のある一生」のなかに、自分が経営していた画廊の椅子に腰かける晩年の洲之内の写真があった。彼のそばには絵画が入っているらしい厚紙の箱がいくつか立てかけてあるが、そのなかのひとつに「松本竣介 白い建物」と書かれている。白い建物とは、あの教会のことではないだろうか。
愛する松本竣介の絵をかたわらに置いて、洲之内は屈託のない顔で微笑んでいた。絵を描く人と、それを観る人との密度の濃い関係が、そこにはあるようだった。
(東京国立近代美術館蔵)
参考図書:
「アサヒグラフ別冊 美術特集 松本竣介」朝日新聞社
※追記:調べたところ、『白い建物』は宮城県美術館に所蔵されていて、『建物(茶)』とは別の絵であることがわかった。ただ写真で観るかぎり、『建物(茶)』のほうが鮮やかな白さが眼に残る絵になっている。
五十点美術館 No.4を読む
ぼくはこれからじっくり読んでみます。