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テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

スペースX社、ファルコン9の打ち上げに成功

2010-06-06 08:32:01 | Weblog
 4日、スペースX社がファルコン9初号機の打ち上げに成功した。ドラゴン宇宙船の模型の軌道投入にも成功。有人のドラゴン宇宙船は飛行士7人を運べるので、このまま順調に開発が進めば、スペースシャトル退役後の空白を埋めることも可能だろう。
 シャトル後継機の開発でもたもたやっていた頃はどうなるかと思っていたが、ベンチャー企業が引き継ぐとは。これがアメリカの底力というものか。
 ちなみにスペースX社のCEO、イーロン・マスクは、テスラ・モーターズの創業者でもある。1971年生まれというから、まだ30代の若さ。ここにもアメリカの底力を見る思いがする。

【ワシントン=勝田敏彦】米宇宙ベンチャー、スペースXは4日、新型の商業ロケット「ファルコン9」を、フロリダ州のケープカナベラル空軍基地から打ち上げ、宇宙船の模型を予定の軌道に投入する試験に成功した。

 オバマ政権は、航空宇宙局(NASA)によるスペースシャトル後継ロケットの開発を打ち切り、物資や飛行士の国際宇宙ステーション(ISS)への輸送に商業ロケットを活用する方針。今回の試験の成否が注目されていた。

 ファルコン9は円筒形で、長さはシャトル機体より18メートルほど長い約55メートル。「ドラゴン」と呼ばれる宇宙船は物資6トンまたは飛行士7人を運べる。今回の成功で、早ければ来年にはISSへの物資輸送に使われる可能性が出てきた。ただし、米商業ロケットが有人飛行に使われた例はなく、安全性を不安視する声もある。

引用元:朝日新聞 http://www.asahi.com/science/update/0605/TKY201006050108.html

面白いほどよくわかるロボットのしくみ

2010-03-27 21:25:02 | Weblog
 今月半ば、SF界の先輩大宮信光さん、気鋭の工学ライター鼎元享さんとの共著で、『面白いほどよくわかるロボットのしくみ』(日本文芸社)を上梓した。
 わたしの担当は第2章「ロボットの歴史」の部分。古代エジプト、ギリシアから現代まで、神話から実用ロボットまで、なんとか要所をおさえて概観できたつもりである。

 言うまでもなく、わたしはロボット工学の専門家ではない。ただ、これまで刊行した著書のテーマは、ロボットの歴史と重なる部分が多い。
『発明超人ニコラ・テスラ』(筑摩書房)のテスラは19世紀末に交流モーターや無線制御を発明し、鉄人28号のような無線操縦型ロボットの元祖となった。『バベッジのコンピュータ』(筑摩書房)のチャールズ・バベッジはコンピュータや人工知能の先駆者である。
『逆立ちしたフランケンシュタイン』(筑摩書房)の中心テーマである人造人間は、ロボット誕生の物語である。
 そのほか、ノイマン式コンピュータのフォン・ノイマン、チューリング・テストのアラン・チューリング、サイバネティックスのノバート・ウィナー、からくりの田中久重などについても小文をものにしたことがある。オールドSFファンとして、ハミルトン、アシモフ、ディック、手塚治虫などのロボット物に対する思い入れも強い。そんなわけで、かなり熱を入れて書かかせていただいた。

 他の著者の方の文章も、簡にして要をえながら、思わずうなるような指摘が多い。書店でみかけたら、ぜひお手にとってご覧下さい。
 
「面白いほどよくわかるロボットのしくみ」
大宮信光/編著
日本文芸社
2010年3月刊
1470円

 

『インド科学の父ボース』刊行!

2009-06-19 21:25:06 | Weblog
 以前から予告させていただいていたパトリック・ゲデス著『インド科学の父ボース』を、6月初旬、工作舎から刊行した。インド科学の開拓者として多大な功績を残したこの偉人の初の体系的紹介書となる。
 昨年末刊行予定が入稿の遅れや出版事情等により、ここまで遅れてしまった。期待してお待ちいただいた読者にはお詫びしたいと思う。
 ボースは著者のゲデスと同様、日本では無名に近い。それでもゲデスについては、E・ハワードやル=コルビジェと並ぶ「近代都市計画の父」として、その分野では名が通っている。翻訳書も鹿島出版会から一冊出ている(パトリック・ゲデス『進化する都市』鹿島出版会)。
 しかしボースについてはほとんど知る人はいないだろう。
 ボースは20世紀前半に活躍した科学者で、その業績は物理学、化学から植物生理学にまで多岐にわたっている。物理学ではテスラやロッジと並ぶ無線研究の先駆者となり、化学では物性化学や写真術の分野で業績をあげ、植物生理学では精密な観測装置「クレスコグラフ」を開発して、植物の運動研究の世界的権威となった。また科学思想を踏み外さずに、西欧とインドをたくみに融合した思想家としても秀れている。
 そしてなによりインド人初の物理学教授となり、最初の民間研究所を開き、インド科学の発展に尽くした功績は比類ない。インドの近代科学はボースに始まったといって決して過言ではないだろう。
 経歴などは訳者解説に詳しく記したので省くが、科学、科学史、植物学、神秘主義、インド、インド的世界観などに興味がある方なら、必ずおもしろく読んでいただける一書だと信じている。ぜひご一読願いたい。

森昌子賛、「演歌は日本人の心ではない」

2009-06-14 18:52:37 | Weblog
 ブレンダ・リーやナット・キング・コールなどのアメリカン・ポップスに始まったわがネット動画音楽の旅も、途中、日本の歌謡曲に移ってはや半年、森昌子でようやく一区切りがついた。その間、美空ひばり、島倉千代子、三波春夫といった戦後歌謡の大物から、都はるみ、石川さゆりといった実力派まで、毎晩寝る前に聞き続けた。
 島倉千代子の「新妻鏡」、三波春夫の「俵星玄蕃フルバージョン」(日本芸能のひとつの頂点である)、石川さゆりの「天城越え」を勝手に殿堂入りさせていただきながら、最後にたどりついたのが森昌子。1984年から86年頃の3年間のものは、自分の持ち歌も、他の歌手の持ち歌もどれもすばらしい。誇張やハッタリはないが、素直で繊細な歌唱が心にしみる。
 聴きながら頭に浮かんだのが「歌謡曲」という言葉だった。
 わたしはつねづね「演歌は日本人の心である」という言い方はおかしい、「歌謡曲は日本人の心である」というべきであると思ってきた。
 演歌と歌謡曲はどこが違うか。あのこぶしコロコロや和服に代表される演歌は、衣装から歌唱法まで、ある時代に限定された歌唱の一スタイルにすぎない。とくに小林幸子、瀬川瑛子、藤あや子、伍代夏子といったスタイルの継承者によって、1980年代以降、増幅されてきたイメージにすぎない。その後、歌謡曲が停滞してしまったために、日本の歌謡の代表のような顔をしてきただけである。
 いわば演歌とは歌謡曲の単なるサブ・ジャンルなのである。本家の歌謡曲(日本のポップス、大衆音楽)はもっとずっと許容力が大きかった。これは戦後歌謡を動画でたどってみればすぐにわかる。美空ひばりにしても、ブギからジャズやロックまで取り込みながら、新しい日本のポップスを創造し、それによって時代の抒情や風景をつむぎ続けてきた。
 その融通無碍なスタイルのうちに響く抒情にこそ、「日本の」と形容してよい音楽の姿がある。その意味では、70年代のフォーク、80年代のアイドル歌謡やニューミュージックのほうが、演歌よりはよほど日本歌謡の本道であり、日本人の心の音楽と呼ばれるべきなのである。
 今回、森昌子引退前数年の歌を聴きながら、あやまって演歌歌手に分類されることの多かった森昌子が、日本の歌謡曲の孤塁を守り続けてきたことにあらためて感銘を覚えた。フォークやポップスのヒット曲を歌っても、童謡を歌っても、いわゆる演歌を歌ってすらもことごとく歌謡曲になっている。
 その重要性に当時気付いた音楽関係者は少なかったのではないだろうか。彼らも今ならよくわかると思う。
 復活した森昌子は当初こそブランクによる歌唱力低下をいわれたが、最近の動画を見る限り声もだいぶ戻ってきたようだ。早熟の天才の晩年が困難なことは、天才の伝記を読み書きする機会が多いので、よくわかっているつもりだ。現時点ではかつてのライバル石川さゆりにも差をつけられているだろう。
 しかし日本の歌謡曲を最高のレベルで伝承できるのは、やはり森昌子しかいない。歌謡曲はすでに滅んだジャンルかもしれないが、それならそれでよい。戦前・戦後を含めた代表曲の全曲レコーディングを目標に、この天才歌手がさらに研鑽を積まれることを切に願うものである。

 

アイム、ソビエト

2009-03-23 20:29:57 | Weblog
今日は午後から東京に出て、広尾の都立中央図書館で調べ物。目指す資料が一発で見つかり、思いがけない付録もあって、よい気分で早めに引き上げた。

その帰り、有栖川公園の通路で外人の男の子に、英語で話しかけている男がいた。
年は35、6ぐらいだろうか。少し小太りで、ラフなかっこうのどこにでもいるおっさんという感じの男だった。
通りすがりに、その会話が耳にはいってきた。男の英語はあまりうまくない。

男「おまえ、なに人?」
子供「スペイン人」
男「そう、スペインか」
子供「おじさんは?」

当然、「アイム、ジャパニーズ」という答が返ってくるとばかり思っていた。
ところが男の答は意外なものだった。

「アイム、ソビエト」

(えっ、ソビエトって……)
わたしは思わず足を止めて、横目で男の顔をうかがった。
どう見ても日本人である。しかもちょっとキモオタ(これ差別用語だったっけ?)風の。
それがロシア人でもなく、ソビエトって。
コリアンやチャイニーズならまだわかるが。

ちょっと間があって男が真剣な顔でしゃべり出した。
その言葉は、ロシア語のようでもあるし、単なるでたらめのようでもあるし、なんとも判断に窮するような言葉だった。
タモリのインチキ・ロシア語のような説得力にもかける。なにかふにゃふにゃして、全身の力が抜けるような言葉だった。
可愛いスペインの男の子は、懸命に話す男をきょとんとした顔で見上げている。

男がこちらに気づきかけたようなので、わたしはふたたび歩きだした。しかしやはり気になって、歩きながら振り返った。
すると、男の子がその場から駆け去るのが見えた。さすがに男のあやしさに気づいたのだろう。

さらに少し歩いてからもう一度、今度は立ち止まって振り返ってみたが、「アイム・ソビエト」の姿はもうなかった。

たまに出かけてみると、やはり東京は刺激的な町だ。


「怪人二十面相・伝」を三茶で観る。よきかな。

2009-03-22 00:02:01 | Weblog
 遅ればせながら「Kー20 怪人二十面相・伝」(佐藤嗣麻子監督)を、三軒茶屋シネマで観てきた。
 始まってすぐににんまり。テスラ装置(テスラコイル)の講演会の舞台にニコラ・テスラの大きな顔写真が掲げられている。割とよく使われる40代の頃の写真だった。それから同じ場面で、うん、うん、うん、と三度うなづいた。もちろんテスラ装置のデモをするシーン。

 テスラコイルのかたちが、ワーデンクリフ型のオーソドックスなタイプでよかった。放電のかたちがリアルで満足。装置について講演するのが八木(多分、八木アンテナの八木秀次)教授というのも、くすぐられた。佐藤監督、なかなかツボを心得てらっしゃる。これだけでも900円(シルバー割引)分の価値は充分にあった。

 あとは童心に帰って、最後まで楽しませてもらった。ありがちな話で、ストーリーにはツッコミどころもあった。ディストピア的な設定にもう少しこだわって、20面相と権力側との関係を描けば、さらに厚みが出ただろう。
 とはいえ、後味のよい娯楽作としてかなりの出来だと思った。

 役者ではシャイで根暗な感じの金城武に惹かれた。もっと陰影をつけてもよいくらい。鹿賀丈史、國村準も、仲村トオルもはまっていたし、小林少年役の男の子も雰囲気があった。
 松たか子はこういうお嬢様役が似合っている。木村多江だったらもっとよかったのにとはいわない。松で適役だった。
 ただ、木村多江なら女マッドサイエンチスト役で、自分のつくったテスラコイルの放電を浴びて身もだえる、なんてシーンが見てみたい。
 そんなシーンがあったら、もう完璧に昇天してしまうだろうな。シルバー割引だけに。

 エンドロールで薬試寺美津秀さんのお名前を確認して、いい気分で帰路についた。三茶まで出かけた甲斐があった。レトロでスティームパンクな佐藤監督の次回作に期待したい。

 
 

おたく文化に咲いた日陰の花

2009-03-15 15:36:14 | Weblog
 行ってきました、黒のホワイトデー。
 実行委員長とTOKON10の結婚式って……。
 よくもあしくも、あれがSFファンの乗りなんですよね。

 柴野御大も病身に鞭打って、二宮から出ばってこられたわけだし、実行委員はいやでもがんばらなければならなくなったわけです。

 会場で、最近『おたくの起源』(NTT出版)という著書を上梓された吉本たいまつさんに紹介された。その著書は未読だったが、主張の骨子はDAIKON3と4の間におたく文化の起源があるということらしい。間と言えば、TOKON8ではないか。
 吉本さんによれば、今回の本ではTOKON8についてはあまり書けなかったので、次回作のために話を聞きたいとのことだった。
「はい、喜んで」ということになった。
 先日、TOKON8について書いたのがきっかけになったわけでもないだろうが、話すにはよい機会だと思った。80歳を過ぎても頭脳の衰えない柴野御大とは違って、このところのわたしの記憶力減退はひどいから。今のうちということで。

 おたく文化起源論的には、実はTOKON8というのはかなり重要なんですね。さすがにお目が高い。しかもわたしなんぞに話を聞こうとは。
 わたしはSFおたく文化の日陰の華というか、ちょっとした隠し味ではあるんですね。新戸に話を聞いたということは、うーん、よくそんなマイナーなところまで調べたなということになるわけです。

 ということで、吉本さん、よろしく。


巽孝之:「TOKON10には、TOKON8のリベンジの意味もあるんですよ」
わたし:「そうですね」
巽:「挫折した夢も多かったですからね」
わたし:「まったく」
巽:「どうですか。この際、『SF論叢』を復刊されては」
わたし:「えっ? えー、そ、それは……」

 SF界の仕掛け人は、相変わらず恐ろしいことを考える。


SF大会で人生を間違えないために

2009-03-12 17:05:13 | Weblog
 来年、東京でTOKON10(第49回日本SF大会、立花眞奈美実行委員長、斎藤喜美子事務局長)が開催される。
 わたしがTOKON8の運営に参加したのは1982年のことだったから、もう四半世紀以上前のことになる。その間に東京で一回しか開かれていなかったというのに改めて驚いた。東京にパワーがなかったというより、地方ががんばったというべきだろう。
 わたしはもはやロートルだが、久々の東京だし、なにかお手伝いできることがあればと考えている。

 1982年のTOKON8当時は、「スターウオーズ」「未知との遭遇」などが引き起こしたSFブームが続いていたこともあって、SF大会の人気は高かった。1500人の定員はすぐにいっぱいになった。それもろくに宣伝しないで、その数だった。
 最初からその気で宣伝していれば、おそらく1万人ぐらいは集まっていたのではないだろうか。これは決してオーバーな数字ではない。締め切り後も、その倍近くの申し込みがあったし、志賀隆生ががんばったプログラムブックの広告の数を見れば、当時のSFに対するメディアの期待の大きさがわかるからである。

 企画段階の中心になったのは「イスカーチェリ」「科学魔界」「SF論叢」といった当時、硬派を自認していたファンジンだった。東京でSF大会をやろうと言い出したのが誰かはよく覚えていないが、気が付いた時にはみないっせいに走り出していた。
 実行委員長にSF評論で活躍されていた大宮信光さんを立て、柴野拓美さん、野田昌宏さんなどにもご協力をお願いした。実行段階では牧眞司さん、鹿野司さんら、東京理科大や日大などのSF研やそのOBも加わった。

 わたしは企画担当ということになり、実行委員から企画を募った。御前憲弘さんが時刊新聞のアイデアを出したり、中井紀夫さんが会場ツアーを提案したり、とさまざまな企画が提出された。わたしも「大宮信光・松岡正剛対談」とか、いくつか企画をでっちあげた。「大江健三郎・井上ひさし・筒井康隆」パネルという無理目の企画も考え、実現寸前までいったが、諸事情から頓挫した。オープニングCG、ドキュメントフィルム「福島正実」の未完成(原因はどちらも予算超過。とくにCGについては、途中で製作費を知って真っ青になった)などとともに、今思い返しても残念である。

 考えてみると、企画だけみても不思議な混沌とした大会だった。波津博明、沼野充義のソ連・東欧(左翼?)SF誌「イスカーチェリ」、巽孝之のポストモダンSF誌「科学魔界」、志賀隆生、永田弘太郎、そしてわたしのサブカル+現代思想誌「SF論叢」が、SF大会というコンベンショナルなイベントを共同開催しようというのだから、おかしなことにもなる。
 しかもこの3誌、みな理屈はいいが、実際に動ける仲間は10人もいなかった。結局、それ以前に大会の運営経験のある人たちの助けを借りることになる。
 個人的には、台頭しつつあったアニメなど映像SFに対する活字SFへのこだわり、ニューウェーブの再評価、SFと現代文学、現代思想、ポストモダンの融合など隠されたテーマもあった。ファンダム的には反「一の日会」というテーマもあったかもしれない。しかし当日が近づくにつれ目が回るような忙しさになり、そんなことはどうでもよくなった。最後なんとか辻つま合わせができたのは、SF大会という伝統の力のなせる技だろう。
 大きな事故がなかったのも幸いだった。直後、大宮実行委員長は心労の余り倒れてしまったが。
 これを機にわたしは役所勤めをやめ、あとあとまで、「あのときおまえが役所をやめなければと」と母親や姉に言われ続ける原因となった。そういう意味でも、思い入れが深い。来年までには、どこかで機会をつくって思い出話などもできればと思っている。
 若いSFファンがSF大会で人生を間違えないためにも。