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テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

大西洋横断通信の夢

2011-01-10 21:40:16 | Weblog

 1867年7月、大西洋を行く巨船グレート・イースタン号の甲板にひとりの男の姿があった。長いあごひげと秀でた額をもつこの男の名はウィリアム・トムソン。英国の名門グラスゴー大学に籍を置く少壮の物理学者である。
 大学で教鞭をとっていた学者が、蒸気船で大西洋に乗り出したわけは、建設が始まった大西洋横断電信ケーブルの敷設工事を陣頭指揮するためだった。
 この工事は世界の産業をリードする英米両国にとって、まさに10年越しの悲願だった。
 アメリカのサミュエル・モースが発明した有線電信が実用化したのは1840年代のことだった。その後、電信網は陸地から海峡を越えて広がり、1856年には大西洋を横断して新旧大陸を結ぶ計画が立案され、大西洋電信会社が設立された。
 トムソンは以前から電信ケーブルの電気的性質の研究を行い、様々な提言も行ってきた。そこで彼も計画に参加することになった。
 トムソンは、信号の速度はケーブルの断面積に比例し、信号の減衰はケーブル長の2乗に比例するから、成功の鍵はより太いケーブルの採用にあると主張した。しかしこの提案は経済的な事情から採用されないまま、1857年、英国の軍艦アガメムノンと米国の軍艦ナイアガラの2隻による敷設工事が開始された。
 工事は順調に進むかに見えたが、500キロ余り敷設したところでケーブルが切断され、海中深く沈んでしまった。翌年の2度目の挑戦も切断などで失敗に終わった。しかし同年の3度目の試みで、ようやく大英帝国のヴァレンシア島(現在のアイルランド領)とアメリカのニューファンドランド島(現在のカナダ領)間の敷設に成功した。
 開通当日には、ヴィクトリア女王からブキャナン大統領あての祝電も送られ、労苦が報われた関係者は祝賀ムードに包まれた。しかしせっかく開通したものの通信状態が悪く、何度も送り直さす必要があったことなど大きな問題が残った。しかも2カ月後にはケーブルの腐食により音信不通になってしまった。
 度重なる失敗にこりた事業主は、主任技師を解雇してトムソンを後任に据えた。理論と現場に通じた文字通り海底電信界のエースの登場だった。
 トムソンの指導の下、敷設は順調に進み、前年、海底に見失ったケーブルの引き揚げにも成功した。かくして合計2本の海底ケーブルが大西洋をまたいでつながれ、新大陸と旧大陸がホットラインで結ばれることになったのである。
 この大工事に活躍したグレートイースタン号は、蒸気王イザムバード・ブルネルが設計した3隻の大西洋横断蒸気船の最後の一隻だった。そして最大の船だった。その大きさが、重量が増したトムソンのケーブルの運搬に大きな利点となった。
 ブルネルはこの蒸気船の完成を見ずに没していたが、大西洋の架け橋となった蒸気船が二度目のご奉公をしたことを草葉の蔭で喜んだにちがいない。

 1825年、数学者を父に生まれたケルヴィンは10歳で大学に入学するという早熟振りを発揮、22歳で大学教授に就任した。熱・電気・磁気現象を数学的に取り扱った多数の論文を書いたが、中でも、熱力学の第二法則の一般化、絶対零度を基準とする温度単位の提唱、高周波回路に応用された振動回路理論、仕事量ゼロでで膨張する気体の温度は低下するという「ジュール=トムソン効果」の発見などは科学史上に特筆されている。
 そんな彼の後半生をドラマチックに彩ったのが、この敷設工事だった。
 何事も徹底しないとすまないケルヴィンは、これ以降、海底電信の技術的な研究に没頭し、数多くの特許を残すことになった。
 1890年には世界科学界の最高峰である王立協会の会長に就任。科学の発展に尽力し、多くの科学者を支援した。ニコラ・テスラやチャンドラ・ボースといった誤解されがちな天才にも、暖かい励ましの手を差し伸べた。
 1892年、その多彩な業績に対してサーの称号を贈られ、ケルヴィン卿となった。
 ケルヴィンは古典物理学に殉じた科学者と評価され、晩年は旧世代の代表と目されるようになった。だがその一方で、20世紀物理学に先駆ける業績も無数に残したことは忘れてはならないだろう。
 彼は大西洋横断ケーブルで新旧大陸の懸け橋となっただけでなく、19世紀と20世紀の橋渡しもしたのである。



ケルヴィン卿(ウィリアム・トムソン)
1824~1907
イギリスの物理学者

東京スカイツリー・ウォッチング

2011-01-10 13:52:50 | Weblog

 首都圏の新しい電波塔となる東京スカイツリーの建設に注目している。完成後の高さは634メートルと、電波塔としては世界一になる予定だ。
 この塔を定点観測しているブログがいくつかあって、わたしはそのひとつを毎日のように覗いている。(「東京スカイツリー定点観測所」)日々高くなる建物は、低迷気味の日本経済復活の起爆剤になりそうなパワーすら感じさせる。
 ブログによれば建設現場界隈は、すでに東京の新名所になっているようだ。人々も世界一の塔建設に、いろいろと復活の希望を託しているのだろう。
 その一方で、ブログの写真を見るたびに、わたしはなんとなく背中がゾクゾクする感じを味わっている。高い所が苦手なわたしは、自分がその上にいるような想像にとらわれて、足下がうすら寒くなってくるのである。
 わたしの高所恐怖症には、子供時代に昇った東京タワーの体験が関わっている。

 昭和33年春、当時小学生だったわたしは家族でオープンしたばかりのタワーを見物にいった。エレベーターに乗るつもりだったが、待たされるのを嫌った父の希望で、父とわたしだけが外階段で昇ることになった。母と姉・妹はエレベーターを待った。
 一度昇った人ならごぞんじだろうが、この階段は囲いが金網になっており、そこから下が丸見えである。高いところが苦手だったわたしには、苦役以外の何者でもなかった。
 なるべく下を見ないようにしていたが、緊張と恐怖で何度も足がとまりそうになった。そのうち疲れで足も痛み出した。心と体の二重苦である。永遠に責め苦が続くかと思われたころ、ようやく大展望台にたどりついた。
 ところがほっとしたのもつかのま、今度は人混みにまぎれて父とはぐれてしまった。どこをどう探してもみつからない。心細さと緊張による疲労から、半べそ状態で歩き回っているうちに案内所に行き着いた。そこでガイドにアナウンスしてもらって、ようやく家族と再会できたのだった。

 東京タワーには恨みはないが、以来、高いところへの苦手意識はますます強まった。成人してから新宿や池袋の高層建築物はいくつか昇ったが、毎度、好奇心と恐怖の板挟みでの見物となった。最近はこりて高い建物は最初から敬遠、地元に近い横浜のランドマークタワーにも行っていない。
 ブログの写真を見ると、あのときの体験がじわじわと蘇ってくるのである。それなら見なければいいという話だが、一方でわたしはものがつくられていく過程を見るのが大好き。街中でも、工事現場や建築現場に出会うとつい足をとめて見入ってしまう。
 日々高くなる建物を眺めながら、明日はどこまで伸びるのやら、と想像するのが愉しい。
 その点からいえば、世界一のタワーの建設ほど興味深いものはない。しかも毎日更新される鮮明な定点写真でウォッチすることが出来る。恐怖も実際に昇るのに比べれば、ずっと弱まり、その分だけ好奇心が打ち勝つのである。
 日々、成長するタワーは昨年暮れには、ついに500メートルの大台を突破した。現在は550メートルになり、今年中には634メートルに達するそうだ。
「やはり世界一じゃなけりゃだめだ」ということで、成長を楽しみに、今後もブログ・ウォッチを続けたいと思う。

(完成想像図 東武鉄道・東武タワースカイツリー 提供)

スケネクタディの天才

2011-01-04 12:38:46 | Weblog

 交流電力が実用化されたのは19世紀末だった。このとき、最初に虚数を用いてそれを理論化したのは、風変わりな天才オリヴァー・ヘヴィサイドだった。そして最終的な完成者となったのが、交流理論のもうひとりの天才チャールズ・スタインメッツである。
 脊椎後湾症の家系に生まれたスタインメッツは、小柄で、見るからに風采があがらなかった。しかし無邪気で、ユーモラスで、穏やかな人柄は多くの人から愛された。なにより彼は抜きんでた知性の持ち主だった。
 三月革命のさなかドイツに生まれたスタインメッツは、ギムナジウムを最優秀の成績で卒業し、17歳で大学に入学した。大学では電気工学を希望していたが、当時、ドイツの大学には該当する講座がなかったため断念した。
 大学では科学から文学にわたる幅広い知識を身につける一方、社会主義の影響を受けて社会主義に関する論文を書き、革命運動に身を投じた。そのためあやうく検挙されそうになったが、難をのがれて亡命、チューリヒやベルリンの大学で語学、数学、物理学、機械工学などを学んだ。その後、アメリカへ渡った。
 先に亡命していた同国人アイケマイヤーの経営する会社に就職したスタインメッツは、交流電動機の開発をまかせられた。このとき強磁性体のヒステリシス損失が最大磁束密度の1.6乗に比例するという法則(ヒステリシス損の法則)を発見した。
 その才能に目をつけたエジソンは、彼を雇い入れたいと考え、思い切った手段に出た。スタインメッツが勤める会社ごと買い取ってしまったのである。1893年、彼はゼネラル・エレクトリック社の研究者となった。
 エジソンはスタインメッツの才能と人柄を愛し、スタインメッツもエジソンの業績に賛辞を惜しまなかった。ふたりは終生変わらない親交を結んだ。
 1893年、スタインメッツは交流回路の解析に複素数の代数を使う論文を発表した。これによってニコラ・テスラが実用化した交流は、ついに理論的完成を見たのである。
 晩年のスタインメッツの評価は上がるばかりで、その権威から「最高裁判所」とも、また彼の研究所の所在地からとって、「スケネクタディの天才」とも呼ばれた。しかしもともと一匹狼だったスタインメッツは、所長のポストを辞退し、その後は後進の育成に尽力した。
 生涯独身を通したスタインメッツがこの世を去ったのは1923年だった。

「人が本当に愚か者になるのは、疑問を呈しなくなったときである」。
 天才が残した至高の名言である。

(写真は左アインシュタイン、右スタインメッツ)

チャールズ・スタインメッツ
1865-1923
電気工学者


遊行寺で年越し

2011-01-02 20:01:22 | Weblog

 大晦日は遊行寺で、ポトピの矢野さん、遊行フォーラムの高須さんと、年越しそばの振る舞いを手伝いながら年越し。
 遊行寺の参詣客は年々増えているようで、けっこうなことである。
 今から約20年ほど前、ふと思いついて遊行寺に初詣に行ったとき、あまりの参詣客の少なさに驚いた。暗い境内にまばらな人影。売店のたぐいも見当たらない。
 当時はバブルの夢華やかなりし頃で、人々の目も身近な地元より、有名な初詣スポットや海外に向いていた。わたしも明治神宮や鶴岡八幡宮が定番だった。
 それがバブル崩壊以後じょじょに人がふえ始め、最近では境内に長い列ができるほどになった。売店の数も多くなり、時宗総本山にふさわしい初詣光景となっている。
 おかげで用意した千食のそばも、2時間ほどでなくなった。

 当日は宝物館も開館していたので、手伝いが終わったあとは、3人でお邪魔して学芸員の遠山さん、職員の三浦さんと新発見の宝物などについて歓談した。
 ここしばらくは、こんな新年になりそうである。

不思議な飛行場

2011-01-01 16:57:29 | Weblog
 子どもの頃(1950年頃)、巨大なB―29が、我が家の軒先をかすめるほど超低空で飛行していた記憶がある。物心ついたかつかない頃の記憶だから、かなりデフォルメされていると思うが、巨大な銀色の機影は空を覆うようだった。
 あるとき、ふと記憶を確認したくなって家のものに聞いてみたところ、たしかにそんな感じに見えたとのことだった。
 わたしの住む藤沢は、米軍厚木基地の進入路になっている。今なら低空での進入など許されないが、当時はまだ占領下。騒音など無視して飛んでいたのだろう。
 湘南海岸の町藤沢は、意外にも航空機と縁が深い町である。戦前から戦後の一時期には、引地川沿いの高台に飛行場もあった。
 昭和34年9月、その「藤沢飛行場」に黒い偵察機といわれたロッキードU―2が不時着し、大騒ぎになったことがあった。Uー2といえばソ連の領空侵犯して査察活動を行い、ミサイルで撃墜された有名なスパイ機である。折りしも六十年安保の前年ということもあって、テレビや新聞でもかなり騒がれた。
 そんな物騒な飛行機ばかりではなく、飛行場から飛び立った軽飛行機やヘリコプターの姿もよく見かけた。
 藤沢にかつて飛行場があったことはもはや忘れられようとしている。しかしわたしにとってこの飛行場の存在は大きかった。家から近いこともあって、子供のころには格好の遊び場になっていた。
 丘陵を登っていくと、海に向かって突き出すように伸びる滑走路と格納庫が目に入る。運がよければヘリコプターや、軽飛行機の飛行を見ることができた。さらに運がよければ、グライダーの離陸も見ることができた。
 大学のグライダー部のお兄さんが、滑走路の端に停まったグライダーの座席に乗り込むと、それを黒塗りの外車が引っ張って走り出す。興奮して見つめるわたしたちの前をものすごいスピードで走りぬけたかと思うと、そのまま相模湾に向かって飛び出していった。
 そのころ子供たちの間に、パイロットのおじさんと仲よくなれば、飛行機に乗せてもらえるという噂があった。実際に乗ったと言いはる子供もあらわれた。
 ただ、子どものころから引っ込み思案だったわたしは、そのような幸運は最初からあきらめていたが。
 藤沢飛行場で一番興奮した出来事は、はじめて双発機を見た時だった。いつもは単発の軽飛行機ばかりだったが、その日はなぜか、大きく、たのもしい機体が滑走路に翼を休めていた。たぶんビーチクラフトの双発機だったと思うから、軽飛行機の部類のはずだが、わたしには羽田を飛ぶ旅客機のように見えた。
 双発機を見たのは、あとにも先にもこの一度だけだった。
 滑走路に機影のないことも多かったが、そんな時には格納庫を覗くという楽しみがあった。扉は開いていることが多く、大人の目をかすめて潜り込むことはむずかしくなかった。
 広い庫内に数機の軽飛行機と透明な卵型の風防のヘリコプターが並んでいた。金属製の機体はまぶしく、操縦席の計器や操縦駻を飽きずに眺めたものだった。ちょっとしたイタズラもしたが、今思い出して、事故につながるような悪さをしなくて本当によかったと思う。
 飛行場の楽しみは滑走路の外にも広がっていた。周囲には戦時中に掘られた防空壕が多かったからである。蝋燭を手に仲間とよく探検ごっこをした。たいていは行き止まりだったが、ある時、気がついたら、前方に光が見え、山の裏側に抜けていた。
 急に山間の風景が開け、小さな工場を眼下にした時には、別世界につれていかれたような不思議な気分になった。
 飛行場の影響かやがて航空少年になり、将来は航空機の設計者になろうと思ったが、結局、挫折した。
 飛行場がなくなり、跡地に工場ができると聞いたのはたしか、中学校時代のことだった。そのあたりの記憶をたしかめようと、図書館で飛行場について調べたことがある。
 藤沢飛行場ができたのは、戦時中の昭和19年。海軍航空隊がゴルフ場跡地を徴用して訓練用の飛行場を建設したのがはじめである。戦後は進駐軍に接収されたが、その後返還され、民間の航空会社が相模湾の遊覧飛行を行ったり。大学のグライダー部が練習に使ったりした。自家用飛行機の操縦免許証の講習にも使われたそうだ。
 ただ、このあたりは適当な資料がみつからず、詳しいことはわからなかった。
 そういえば中学校のころUFOに興味をもって、テレパシーでUFOを呼ぶ会に参加したことがある。会場は藤沢飛行場の滑走路跡だった。結局、UFOは出現しなかったが、遺棄された滑走路はなにか神秘的で、UFOが降りてきても不思議ではないように思えたものだった。
 あの日の夢の飛行機たちは、今どこを飛んでいるのだろうか。


蒸気王伝説ーイザムバード・キングダム・ブルネルの生涯

2010-12-31 12:08:49 | Weblog
   

 今日は蒸気好きのわたしがもっとも尊敬する蒸気テクノロジスト、イザムバード・キングダム・ブルネルを紹介しよう、
 ブルネルは1806年、イギリスのポートシーに生まれた。父のマークは、シールド工法の発明者として知られる大技術者である。土木工学史上の難工事として知られるテムズ水底トンネルが完成を見たのも彼の尽力のおかげだった。
 幼少期のイーザムバードは6歳でユークリッド幾何学をマスターするなど、神童ぶりを発揮した。ロンドンで初等教育を受けた後、父の祖国フランスに留学、名門学校で高等教育を受けた。
 卒業すると、たたき上げの名工ルイ・ブレゲーのもとで機械技術の基礎を学び、帰国後は父の協力者で、「工作機械の父」と称されるヘンリー・モーズレーのもとでさらに修行を積んだ。
 はじめ橋の設計などを手がけ、28歳の時に設立間もないグレイト・ウェスタン鉄道の技師長となった。ここで彼は超広軌による高速鉄道の建設を唱導した。
 そのレールの幅(軌間)は約2メートル。日本の新幹線の1.5倍という驚異的な広さだった。
 画期的な試みは多くの技術的困難に直面したが、ブルネルは創意と工夫でこれに立ち向かい、苦心の末ついに完成にこぎつけた。
 開通した広軌鉄道は、ロンドンーブリストル間を平均時速90km以上で走行することができた。これは新幹線開通前の在来線特急の平均時速を上回っていた。150年前の高速鉄道の実力がわかるというものだろう。
 この圧倒的スピードで、ブルーネルの鉄道はジョージ・スティーブンソンの狭軌鉄道のライバルとなった。ブルネルの広軌とスティーブンソンの狭軌、互いの信念を貫くように路線を延ばしていた二鉄道は最後に激突、どちらの軌間を採用するかで大論争が起きた。この「軌間戦争」は路線延長の差によって惜しくもブルネルの敗北で終わったが、その鉄道は世界最速の蒸気鉄道として鉄道史上に名をとどめることになった。
 その後、蒸気船の建造に挑んだブルネルは、蒸気船グレイトウェスタン号を完成させた。当時、大洋を蒸気船で横断するのは不可能とされていたが、ブルネルはグレイトウェスタン号による大西洋横断を成功させ、その可能性を証明したのである。
 その後、グレイトイースタン号、グレイトブリテン号という大型汽船を相次いで建造した。グレイト・ウェスタン号と同様、完成時には世界最大の汽船の名をほしいままにした。とりわけ最後に挑んだグレイトブリテン号は、全長210メートル、重量は1万9千総トンと、当時としては空前のスケールを誇る文字通りの怪物船だった。
 ブルネルはこの怪物船の建造に経験と情熱のすべてを注ぎ込み、着手から3年半余りで完成にこぎつけた。しかしすでに50歳の坂を超えたからだに連日のハードワークはこたえ、ついに病に倒れた。これにめげず静養ののち職場に復帰し、最後の仕上げを陣頭指揮したが、完成を目前にして甲板で再び倒れてしまった。
 病の床で処女航海の様子と爆発事故の報告を聞きながら、不死身のブルネルはついに不帰の人となった。
 ブルネルは想像力豊かな天才肌の技術者で、蒸気と土木の時代の基礎を築いた一代の技術者だった。彼の真骨頂はリスクを恐れず、ハードルが高ければ高いほど闘争心をかきたてて挑戦するところにあった。この技術屋魂が世界最速の鉄道や世界最大の蒸気船を可能ならしめたのである。
 日本ではジョージ・スティーヴンソンの名前が余りに突出したため、ブルネルの名を知るものは少ない。だが、その劇的な人生は今も技術のロマンをかき立ててやまない。


蒸気機械が好き─スティームパンクの魅力について

2010-12-28 22:46:02 | Weblog

 18世紀西洋に起こった技術革命の牽引車は、トーマス・ニューコメンとジェイムズ・ワットの蒸気機関だった。蒸気機関は文字通り産業の原動力として生産力を飛躍的に増大させ、鉄道、船、車、航空機、メディアなどのテクノロジー創造に貢献した。産業革命とはまさに蒸気革命だったわけである。
 蒸気機関は小型で高出力、移動が容易で、自然条件に左右されにくいなど、従来の水力、風力、人力などにはない利点があった。その可能性に注目した技術家や発明家は、工場の機械に、交通機関の動力にと、次々に応用を広げていった。
 蒸気飛行機、蒸気潜水艦、蒸気水中翼船、蒸気ヘリコプター、蒸気自動車、蒸気機関車、蒸気モノレール、蒸気オートバイ、蒸気戦車……。蒸気ロボットや蒸気コンピュータまであった。こうして蒸気機関をめぐる技術的想像力の時代、「蒸気からくりの時代」が幕をあけたのである。
 上掲のイラストは、その想像力の一端を示す有名な「フランクリード・シリーズ」の蒸気ロボットである。西部の荒野を疾走する一台のロボット馬車。追いすがるインディアンに銃をぶっ放す勇ましいお姉さん。なんとも楽しいイラストである。

 従来、蒸気機械では蒸気織機、蒸気機関車、蒸気船のような成功した発明ばかりが取り上げられ、失敗した発明は珍発明や珍アイデアの類とみなされがちだった。しかし蒸気機関を内燃機関やモーターに換装することによって実現した航空機、モノレール、ロボット、ヘリコプター、コンピュータなどの例を見れば、その失敗はむしろ可能性の宝庫だったことがわかるだろう。
 エンジニアリングの手法がいくら発達しても、新しい挑戦には試行錯誤がつきもの。結果的にあるものは成功し、あるものは失敗する。そして失敗にこそ学ぶべきことが多いのは、今も変わらない真実なのである。
 蒸気が生み出した想像力は、テクノロジカルなものにかぎらない。それは社会や生活の変化を通じて、政治・経済・社会・文学・芸術などにも大きな影響を及ぼした。
 たとえば蒸気鉄道や蒸気船によって組み込まれた想像力に「地球」がある。交通機関の発達による時空間の拡大は極地、海底、地底、砂漠、密林などを文明社会に引き寄せ、憧憬の対象とした。ジュール・ヴェルヌの冒険小説やH・ライダー・ハガードの秘境冒険小説はそのような時代に誕生したのである。その延長には対象を惑星世界や未来に広げたH・G・ウェルズのSFがあった。

 蒸気に基づく技術には、科学技術に希望を託した一九世紀の人々の夢と活力があふれている。技術自体もクールな現代テクノロジーとちがい、ノスタルジックで、どこか温もりを感じさせる。癒しのテクノロジーといってよいのかもしれない。
 多くの場合、蒸気機関車のようにメカニズムを直接目にできるのも愉しい。わたしが蒸気テクノロジーに惹かれる点もそこにある。。
 その一方で、蒸気テクノロジーは超モダンなハイテクノロジーのイメージももっている。大友克洋のアニメ「スチームボーイ」や荒川弘のコミック「鋼の魔術師」、SFにおけるスティームパンクの作品群などに描かれた19世紀世界は、20世紀を飛び越えて、21世紀から22世紀の世界さえほうふつさせる。
 このように未来とノスタルジーが同居しているところにも蒸気テクノロジー、蒸気からくりの魅力があるのかもしれない。来年あたり、図版・イラストを満載した、そんな楽しい蒸気テクノジーの世界を本にできたらよいなと考えているところだ。

中世から学んだこと

2010-12-26 22:38:02 | Weblog
 門前町から宿場町、住宅・商業・工業都市へ、そして湘南・江ノ島の観光都市へ。わが住む里藤沢は、中世、近世、近代、現代が重層的に折り重なった都市である。
 しかし藤沢の歴史に対する地元の関心はというと、従来、近世の藤沢宿が中心だったように思う。郷土史家の書くもののそのあたりの時代が多かった。
 今から十数年前、自分の足元のことも少しは知らないとと思い、藤沢地域史研究会に入ったときにも、幕末史が対象であることに抵抗はなかった。藤沢の郷土史なら江戸という思い込みが刷り込まれていたのである。
 と同時に、それは自分の中に「中世」のイメージが希薄だったこととも見合っていた。それ以前から、近世や近代のイメージは江戸・明治とともに比較的鮮明だった。しかし自分の不勉強を棚上げするわけではないが、鎌倉はともかく、南北朝や室町になるとどうにもとらえどころがなく、「中世藤沢」といっても「藤沢は鎌倉時代、遊行寺の門前町として発達した」という以上にイメージがわかなかった。そのため藤沢宿の発想からなかなか離れられなかったのである。
 ところが遊行フォーラムという文化団体を有志で立ち上げ、ともに活動しているうちに、いつのまにか中世藤沢に関心が向かっている自分に気づかされた。最初のきっかけは第一回以来続いている「説経節公演」である。
 武蔵大掾、若松若太夫、説教節政太夫らの語る中世の人々は、飢餓、病、災害といった悲惨な境遇の中でも、生への希望をもって、懸命に生き抜いた。現代人に比べて中世人のほうが立派だとはいわないが、少なくともより人間らしいのではないか。しだいにそう思えてきたのである。
 その思いは中世のエッセンスを抽出した藤沢発の中世演劇「遊行かぶき」にかかわる中でいっそう深まっていった。
 一方で、こうした転換は自分の興味や関心の変化とも結びついていった。

中世という身体

 ここ十数年、わたしは科学技術の効用と限界について考えたり、書いたりする機会が多かった。きっかけは現役の科学者が犯罪者となったオウム真理教事件だったが、こうしたテーマを考えるうえで中世がひとつのキーワードになることに気づかされていったのである。
 たとえば中世の「錬金術」は、かつては単なる錯誤や迷妄の産物とみなされてきた。しかし、その物質観や実験的方法が評価され、近代化学(近代科学)の原型と考えられるようになった。錬金術の不純な要素を切り落とし、洗練化したのが近代科学だというわけである。「占星術」や「魔術」についても同様の見直しがあった。
 しかしこうした見方も、現代から過去を切る啓蒙史観、進歩史観の産物とする批判が起こり、今日では記号、シンボル、意味などに満ちた世界観として、科学的世界観と同等の価値をもつ思想体系として再評価されるに至っている。
 錬金術に代表される中世的思考は決して「克服」されたわけではない。テレビや雑誌には中世的世界観の残滓である星占いが生き残りであり、呪術や魔術、オカルトなども新興宗教や、ホラー映画や小説の不可欠な要素として生き残っている。キリスト教やイスラム教、あるいは仏教などの伝統宗教についていうまでもないだろう。
 では、中世的思考や世界観の存続は悪しきことなのだろうか。わたしたちは合理的思考によってこれを克服し、中世の迷妄から一刻も早く脱出すべきなのだろうか。
 どうも、わたしにはそうは思えないのである。中世が今に生き残っているのは、人間が身体を備えているのと同じように、あるいは人間の脳や体や遺伝子に進化の痕跡が刻みこまれているように、その存在が生にとって基本的なものだからではないだろうか。
 近代の合理主義的人間像では、人間が人間であることは思惟(思考)にあるとされた。つまりつまり頭だけに価値を求め、それによって中世の無知や迷妄から脱することができると信じたのである。人間は頭だけで生きられはずがないのに、それが可能であるかのように思いこみ、そうみなしてきたのである。ここに大きな錯誤があった。
 同じように、わたしたちは長く中世を否定し、近代だけで生きられるように錯覚してきた。だが中世とは、身体のようにわたしたちの生の条件であり、必要不可欠なものなのではないか。切り捨てようと思えば、生存すら危うくなるような。
 そのような生の原型としての、あるいは歴史的身体としての中世と中世藤沢の存在は、わたしの中でますます大きくなってきている。それをフォーラムの活動を通して、街の中で実践的に考えていくことが目下のテーマになっている。
                                  (「遊行フォーラム15年記念誌」に寄せた文章から)

木村多江の北川景子いびりはすでに始まっている

2010-12-25 19:23:12 | Weblog
 久しぶりに木村多江の話題──。
 最近は単発ドラマが多かったが、来年1月のTBS新ドラマ「LADY~最後の犯罪プロファイル~」に、レギュラー出演が決定した。
 役はヒロイン北川景子(香月翔子)の上司結城晶。先ごろオープンした公式サイトに、木村のインタビューが掲載されているが、これがなかなか面白い。
 北川の印象を聞かれて、木村は、「お芝居を感覚的にとらえている天才肌の女優さんだと思います」とか、「台本を読んで、この祥子はこういうイメージかなと思っていると、それをよい意味で裏切ってくれる」などと答えている。
 これをわたし流に翻訳すると、「芝居の基礎がぜんぜんできていない」とか、「やりにくいったらありゃしない」という意味になる。なかなか辛らつだ。
 いや、いくらなんでもそれはうがちすぎ。多江さんはそんな意地悪な人ではない、という反論はあるだろう。しかしそれはインタビューの言葉を本人の言葉ととった錯覚から出た反論。ここで「天才肌」とか「よい意味で裏切ってくれる」とかいっているのは、木村本人ではなく、実は役柄の結城晶なのである。
 なぜ、そんなことがわかるか。

 インタビューの前段で、木村は今回の役作りについて、サディスティックな部分を活かして、部下をいびっていこうと思っていると語っている。

「食事をするシーンの撮影があり、そこで、結城は翔子にチクチクと刺すような話し方をするのですが、演じているうちに快感になってきてしまいました(笑)。皆さんにも、このシーンの2人のやり取りを楽しんでいただけたら嬉しいです。」

 さすが名女優。インタビューからして、チクチクと刺している。すでに役作りは完璧と見た。名演に期待がふくらむということで、これは必見リストに入れておかねば。  

遊行寺に「AKB48」来臨!

2010-12-17 23:15:22 | Weblog

 昨日昼過ぎ、本堂下に置かせてもらっている遊行舎関係の小道具や資材を片付けに遊行寺(時宗総本山清浄光寺、藤沢)に行った。
 作業前に境内にある宝物館に寄ったら、宝物館職員(遊行フォーラム)の三浦理香さんが表で掃除をしていた。声をかけると、開口一番「さっきまでAKB48が来てたんですよ」。
 最近の芸能事情にはうといが、AKB48が今一番人気があるアイドル・グループだということは知っている。
「えっ、なんで?」と聞き返すと、「なんかの撮影らしいです。隣の高校(藤嶺学園藤沢高等学校)の生徒が騒いで大変でした」とのこと。
「だれが来たの?」と聞くと、今度は「さあ……」との答。そりゃそうだ。三浦さんはわたしよりずっと若いが、アイドル・グループのメンバーの個人名まで知るわけがない。仮に知っていても、こちらは知らないからイメージがわかなかっただろう。(だったら聞くなという話だが)
 後でネットを検索して、来たのは前田敦子さん、大島優子さん、板野友美さんといった主力メンバーで、目的はPVの撮影だったらしいとわかった。
 さぞ大騒ぎだったことだろう。
 
 ところで、ここを選んだスタッフは、遊行寺が芸能に深い縁がある寺だと知っていたのだろうか。
 時宗開祖の一遍上人は、鎌倉時代に布教の一環として「踊り念仏」を始めた。それが発展して、歌舞伎や盆踊りとなったのである。境内の一遍上人の銅像にお参りすれば、芸能の神のご加護があったろうが、まあ、訪れただけでもご利益があるにちがいない。
 遊行寺のご縁、同じ芸能関係者(笑)のご縁で、今後は応援させてもらうことにしよう。