
1867年7月、大西洋を行く巨船グレート・イースタン号の甲板にひとりの男の姿があった。長いあごひげと秀でた額をもつこの男の名はウィリアム・トムソン。英国の名門グラスゴー大学に籍を置く少壮の物理学者である。
大学で教鞭をとっていた学者が、蒸気船で大西洋に乗り出したわけは、建設が始まった大西洋横断電信ケーブルの敷設工事を陣頭指揮するためだった。
この工事は世界の産業をリードする英米両国にとって、まさに10年越しの悲願だった。
アメリカのサミュエル・モースが発明した有線電信が実用化したのは1840年代のことだった。その後、電信網は陸地から海峡を越えて広がり、1856年には大西洋を横断して新旧大陸を結ぶ計画が立案され、大西洋電信会社が設立された。
トムソンは以前から電信ケーブルの電気的性質の研究を行い、様々な提言も行ってきた。そこで彼も計画に参加することになった。
トムソンは、信号の速度はケーブルの断面積に比例し、信号の減衰はケーブル長の2乗に比例するから、成功の鍵はより太いケーブルの採用にあると主張した。しかしこの提案は経済的な事情から採用されないまま、1857年、英国の軍艦アガメムノンと米国の軍艦ナイアガラの2隻による敷設工事が開始された。
工事は順調に進むかに見えたが、500キロ余り敷設したところでケーブルが切断され、海中深く沈んでしまった。翌年の2度目の挑戦も切断などで失敗に終わった。しかし同年の3度目の試みで、ようやく大英帝国のヴァレンシア島(現在のアイルランド領)とアメリカのニューファンドランド島(現在のカナダ領)間の敷設に成功した。
開通当日には、ヴィクトリア女王からブキャナン大統領あての祝電も送られ、労苦が報われた関係者は祝賀ムードに包まれた。しかしせっかく開通したものの通信状態が悪く、何度も送り直さす必要があったことなど大きな問題が残った。しかも2カ月後にはケーブルの腐食により音信不通になってしまった。
度重なる失敗にこりた事業主は、主任技師を解雇してトムソンを後任に据えた。理論と現場に通じた文字通り海底電信界のエースの登場だった。
トムソンの指導の下、敷設は順調に進み、前年、海底に見失ったケーブルの引き揚げにも成功した。かくして合計2本の海底ケーブルが大西洋をまたいでつながれ、新大陸と旧大陸がホットラインで結ばれることになったのである。
この大工事に活躍したグレートイースタン号は、蒸気王イザムバード・ブルネルが設計した3隻の大西洋横断蒸気船の最後の一隻だった。そして最大の船だった。その大きさが、重量が増したトムソンのケーブルの運搬に大きな利点となった。
ブルネルはこの蒸気船の完成を見ずに没していたが、大西洋の架け橋となった蒸気船が二度目のご奉公をしたことを草葉の蔭で喜んだにちがいない。
1825年、数学者を父に生まれたケルヴィンは10歳で大学に入学するという早熟振りを発揮、22歳で大学教授に就任した。熱・電気・磁気現象を数学的に取り扱った多数の論文を書いたが、中でも、熱力学の第二法則の一般化、絶対零度を基準とする温度単位の提唱、高周波回路に応用された振動回路理論、仕事量ゼロでで膨張する気体の温度は低下するという「ジュール=トムソン効果」の発見などは科学史上に特筆されている。
そんな彼の後半生をドラマチックに彩ったのが、この敷設工事だった。
何事も徹底しないとすまないケルヴィンは、これ以降、海底電信の技術的な研究に没頭し、数多くの特許を残すことになった。
1890年には世界科学界の最高峰である王立協会の会長に就任。科学の発展に尽力し、多くの科学者を支援した。ニコラ・テスラやチャンドラ・ボースといった誤解されがちな天才にも、暖かい励ましの手を差し伸べた。
1892年、その多彩な業績に対してサーの称号を贈られ、ケルヴィン卿となった。
ケルヴィンは古典物理学に殉じた科学者と評価され、晩年は旧世代の代表と目されるようになった。だがその一方で、20世紀物理学に先駆ける業績も無数に残したことは忘れてはならないだろう。
彼は大西洋横断ケーブルで新旧大陸の懸け橋となっただけでなく、19世紀と20世紀の橋渡しもしたのである。
ケルヴィン卿(ウィリアム・トムソン)
1824~1907
イギリスの物理学者