寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
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(第2768話) 毛筆の答辞

2019年04月05日 | 出来事

  “間もなく孫娘が私と同じ小学校を巣立ちます。六十二年前の自分の姿を重ねつつ、亡き父との思い出がよみがえってきます。小学校卒業を控えたある日のことです。担任の先生から答辞を朗読するように言われました。その晩から父は私のために原稿を一生懸命考えました。学校と児童との間では答辞を任されるということは家ぐるみで考えるのが暗黙のルールとなっていました。ところが仕上がった父の原稿を見て驚きました。小学生の私には読み取れない旧仮名遣いだったのです。しかも崩し文字で書かれていました。やむなく近所の書道家に代筆を頼んで新仮名遣いの楷書に改めてもらいました。
 父は二十七年前に九十一歳で亡くなりました。実家の仏壇の引き出しを整理していたら巻紙に毛筆で書かれたあの答辞の原稿があったのです。私はそれを幾度も読み返しました。亡き父から受け継いだ唯一の形見です。私の大切な宝物になり、わが家の金庫にしまってあります。”(3月17日付け中日新聞)

 愛知県江南市の大脇さん(男・74)の投稿文です。卒業式の答辞を任せられた人は、家族でその文を考える、それが暗黙のルールであった、という。この文からボクはある出来事を思いだした。実はボクも小学6年の時、答辞を任せられた。書いたものを読むだけではない。文案から書かねばならない。父親が書いてくれた。どんな内容だったかは思い出せないが、まさに父の文であったろう。ボクはほとんど何も加わっていなかったと思う。清書はどうしたのだろう。思い出せないが、父ではなかった気がする。あくまでボクが書いた体裁だった気がする。ここが大脇さんと違うところだったと思う。ボクの文ではないだけにいつまでも気がひけているのである。大脇さんのように暗黙の了解があり、堂々としておられればよかった。光栄ではあったが、少し苦い思い出である。
 父親とはこういうものだったかも知れない。子供の光栄を嬉しくて、つい手を出してしまう。他に工作などでも父がよく手を貸してくれた。何かといろいろあった父とボクの関係であったが、亡くなった後にいろいろ話を聞くと、父は内心、ボクを誇りに思っていた気がする。もっと思いやりを持って接すればよかったと、悔いるのである。


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