寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
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(第3263話) 道草のすすめ

2022年01月21日 | 活動

 “忘れられかけていた一冊が、突然注目を浴びた。「子どもの道くさ」 福岡県糸島市の僧侶水月昭道さん(五四)が子どもの登下校に付き添い、その様子や意義をつづって二〇〇六年に世に出した。千五百部を印刷して、終わり。そうなるはずだった。
 十四年後の二〇年七月。旅行ライターの岡田悠さん(三三)がツイッターで本の感想をつぶやいた。道草をする子どもの写真を添えて「全然ちゃんと帰らなくて良い」。投稿は、あっという間に十二万を超える「いいね」を集め、コメントも相次いだ。「通学路は大いなる学びの場!」「帰り道って冒険の毎日だったよなあ」(中略)
 水月さんは新型コロナウイルス禍をキ-ワードに挙げる。会社帰りに一杯引っかけたり、ぶらりと散歩したりすることが「不要不急」とされた。「でも、その中に大事なものがあったと気が付いたのでは。目の前の仕事をこなすだけでは、機械と同じですよ」
 馬が道端の草を食んで歩みが遅れる。そんな語源を持つ「道草を食う」ことは無駄なようでも、知らず知らずの間に私たちの心に染み込み、息づく。効率やスピードが重視されがちな時代に、その深みを見つめ直してみたい。”(1月1日付け中日新聞)

 記事からです。ボクも老人会の役目で、児童の登下校を見守る機会がある。下校時に児童はまっすぐには歩かない。ふざけあったり、何かを見つけてしゃがんだり、特に低学年は激しい。危なくないようにそれを見守るのが役目である。子どもの道草は本当に楽しそうである。
 しかし、効率を求め一直線に進むことを求める現代社会である。大人の話であろうが、当然子どもにも影響を及ぼす。それに異を挟むような道草。さてどうなんだろう。ボクは子どもなら当然許させばいいと思う。道草もしないような子どもに豊かさはあるだろうか。さて、大人である。日本社会は生産性が低いという。それは仕事の進め方の問題と思う。意見も言わないような会議や上意下達の進め方、前例踏襲の重視などの問題であろう。人間は機械ではない。厳しさと余裕の兼ね合わせが重要ではなかろうか。先日テレビを見ていたら、リズムを取って歩いたり手を動かすといいと言うことをやっていた。これは力を入れる時と抜く時を上手に組み合わせることである。入れっぱなしでは効果は上がらない。仕事や人生にも通じると、この文章を書きながら気がついた。


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