TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

本蓮寺に移されていた吉井勇の歌碑 「とこしへに水清かれと祈らまし…」

2020年04月13日 | 吉井勇
「長崎探訪5 浦上水源地」の続編ということになる。

まったくの偶然だが、「孫文・梅屋庄吉と 明治大正長崎事情1」という別の資料を調べていて、浦上水源地に建てられた吉井勇の歌碑は別の場所に移されたことが分かった。その資料である。

「勇は道ノ尾温泉にも足を伸ばした。そこの料亭の経営者重富きみに案内された料亭2階から満々と水をたたえている浦上水源池を眺めて詠んだ一首が
  とこしへに水きよかれと祈らまし蓬莱の池を見はるかしつつ
『蓬莱の池碑』の除幕式は昭和29年(1954)初夏で、浦上水源池の一番奥にある湖畔の広場に重富きみによって建てられた。その後、昭和44年(1969)本蓮寺境内に移転された。」

件の本蓮寺を訪ねてみた。
本蓮寺は日蓮宗のお寺で、JR長崎駅から歩いて5分の丘の上に建っている。



石段の中ほど

かっての山門の跡。 昭和20年8月9日、原爆投下の折にこの寺は全焼したという。

境内を一通り探したが、吉井勇の歌碑は見つけることができなかった。



なぬ! あれはなんだ? 屋根の上に…



ウルトラマン!ではなく、巨大な観音様が… (注 ウルトラマンは40m、あの観音様は30m)


あの観音様は、近くの福済寺のもので、万国霊廟長崎観音様だそうだ。
長崎旅ネットに次のように紹介されている。

「福済寺は、長崎の唐寺のなかでも大きな寺院であったといわれ、戦前には現在の国宝にあたる特別保護建築物に指定されていました。しかし、第二次大戦中に原爆で焼失してしまい、現在では原爆被災者と戦没者の冥福を祈って建てられた『万国霊廟長崎観音』が静かに長崎の街を見渡しています。」

そうか、あそこも原爆でやられたんだ…

おっと、横道にそれすぎている。肝心の吉井の歌碑に話を戻さなければならない。
自力で見つけることができず、お寺の事務所を訪ねた。
吉井勇の名前を出すと、すぐに案内してくださった。



閉まっていた門を開けてくださり


庭園の中に入れてもらった




そしてついに対面することができた。


かって、水源地の湖畔に建てられていた吉井勇の歌碑だ。





  とこしへに水きよかれと祈らまし蓬莱の池を見はるかしつつ

左の碑では「吉井勇」や、歌碑が建立された「昭和29年」の文字を読み取ることができる。


歌碑が建った翌、昭和30年は平和公園の平和祈念像が完成した年だ。
原爆で焼け野原になった長崎の町が、復興に向けて立ちなおりかけている頃だ。

「とこしへに水清かれ」との祈りは、なみなみと蓄えた水源地の水はもちろんのこと、平和への祈りでもあるのだろう。
あの巨大な「万国霊廟長崎観音」が原爆被災者と戦没者の冥福を祈って建てられたように。




吉井勇の歌碑も安住の地を得て、ここ本蓮寺から静かに祈りを捧げているようだった。
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