前回、島原市三会地区の一部の地名の呼び方が変わってしまったということを書きました。
昔ながらの言い方が、漢字表記にそった言い方に変わってしまっています。
一例として、「出川」は、「いでんこ」と呼んでいたのが、なんと「いでのかわ」に…、といった具合に。
( → 「消える方言 昔ながらの地名までが…」
「三会」は「みえ」と読みます。平成18年、有明町が島原市に編入されるまでは、島原市内で「三会小学校」「三会中学校」と昔ながらの地名が、そのまま学校の名前として残っているのは、唯一、三会だけでした。昭和30年(1955年)に、旧三会村は島原市に合併編入されたわけですが、先輩方の努力がなければ「島原市立第六小学校」、また同じく「第四中学校」となっていたかも知れません。
昔ながらの地名が残っているということは、たいへん有り難いことことです。
話は変わりますが、大相撲の島原市出身「若圭翔」が中学校時代全国大会に出場したとき、会場のアナウンスが、「『第二中学校』・下田君」でした。どの選手に対しても、県名や学校の設置者は一切言っていませんでしたが、「第二中学校」と言われても、全国の人は全くわからない訳です。全国大会という晴れの舞台で、郷土の名前が出てこないというのは寂しいものがあります。
あの頃の島原市では、三会地区は新たに編入された新参者で、市の中心部からの順番が六番目でした。したがって、それまでの慣例で「第六小学校」となってもおかしくなかったわけです。
私自身、言葉に関しては、中学校までは実に平和でした。三会小学校、三会中学校と同じ地域のメンバーと平穏に過ごしていたわけですから。ところが、高校進学後ののクラスでは、三会出身の男子は私一人でした。そしてこともあろうに、私が使う言葉をとりあげて、からかったり、からかわないまでも冷ややかな目で薄ら笑いをする輩が現れたわけです。それはショックでした。あのとき、自分の度量が大きくて、他の生徒から笑われようと地元三会の方言で押し通せればよかったのですが、それができませんでした。小心者でした。そして次第に、三会の方言を使わなくなってしまったのです。
これは私の私見ですが、「出川」(いでんこ)が「いでのかわ」に、「中原」(なかばる)が「なかばら」になったのは、自分たちが使う言葉に自信がなかったからではないかと思います。他の地域では、胸を張って「川」は「こ」と呼んでいます。同じく、「原」は「はる」と呼んでいます。
「三会」という地名は、南北朝時代やそれ以前の書物にも見つけることがでる昔からある地名です。ただ、書物によっては漢字が「三江」「三重」「見江」と書かれているものもありますが、それは辞書や地名辞典などなかった時代のことですから、誤字であったと思います。いずれにしても「三会」が、遠い昔から存在し、今も地域の子ども達が通う小学校の名前に残っていることは有り難いことです。
三会の方言に入る前に、もう少し地名のことを書いてみようと思っています。(続く)
※ 次の写真は、現在の史跡の説明文ですが、(これらとは別に)昔の記録の中に「三会」という地名を発見することができます。
昔ながらの言い方が、漢字表記にそった言い方に変わってしまっています。
一例として、「出川」は、「いでんこ」と呼んでいたのが、なんと「いでのかわ」に…、といった具合に。
( → 「消える方言 昔ながらの地名までが…」
「三会」は「みえ」と読みます。平成18年、有明町が島原市に編入されるまでは、島原市内で「三会小学校」「三会中学校」と昔ながらの地名が、そのまま学校の名前として残っているのは、唯一、三会だけでした。昭和30年(1955年)に、旧三会村は島原市に合併編入されたわけですが、先輩方の努力がなければ「島原市立第六小学校」、また同じく「第四中学校」となっていたかも知れません。
昔ながらの地名が残っているということは、たいへん有り難いことことです。
話は変わりますが、大相撲の島原市出身「若圭翔」が中学校時代全国大会に出場したとき、会場のアナウンスが、「『第二中学校』・下田君」でした。どの選手に対しても、県名や学校の設置者は一切言っていませんでしたが、「第二中学校」と言われても、全国の人は全くわからない訳です。全国大会という晴れの舞台で、郷土の名前が出てこないというのは寂しいものがあります。
あの頃の島原市では、三会地区は新たに編入された新参者で、市の中心部からの順番が六番目でした。したがって、それまでの慣例で「第六小学校」となってもおかしくなかったわけです。
私自身、言葉に関しては、中学校までは実に平和でした。三会小学校、三会中学校と同じ地域のメンバーと平穏に過ごしていたわけですから。ところが、高校進学後ののクラスでは、三会出身の男子は私一人でした。そしてこともあろうに、私が使う言葉をとりあげて、からかったり、からかわないまでも冷ややかな目で薄ら笑いをする輩が現れたわけです。それはショックでした。あのとき、自分の度量が大きくて、他の生徒から笑われようと地元三会の方言で押し通せればよかったのですが、それができませんでした。小心者でした。そして次第に、三会の方言を使わなくなってしまったのです。
これは私の私見ですが、「出川」(いでんこ)が「いでのかわ」に、「中原」(なかばる)が「なかばら」になったのは、自分たちが使う言葉に自信がなかったからではないかと思います。他の地域では、胸を張って「川」は「こ」と呼んでいます。同じく、「原」は「はる」と呼んでいます。
「三会」という地名は、南北朝時代やそれ以前の書物にも見つけることがでる昔からある地名です。ただ、書物によっては漢字が「三江」「三重」「見江」と書かれているものもありますが、それは辞書や地名辞典などなかった時代のことですから、誤字であったと思います。いずれにしても「三会」が、遠い昔から存在し、今も地域の子ども達が通う小学校の名前に残っていることは有り難いことです。
三会の方言に入る前に、もう少し地名のことを書いてみようと思っています。(続く)
※ 次の写真は、現在の史跡の説明文ですが、(これらとは別に)昔の記録の中に「三会」という地名を発見することができます。