天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

京都 「往生礼讃」発祥の地

2012-05-08 20:19:55 | 京都便り

新緑が眩しい5月、京都東山の鹿ヶ谷にある安楽寺(住蓮山安楽寺)さんへ行ってきました。

鎌倉時代の初期、現在地より約1キロ東にあった「鹿ヶ谷草庵」では法然上人のお弟子の

住蓮房と安楽房が毎日『往生礼讃』をお勤め布教し、参集する人々と共にお念仏を喜んでおられました

 

それで山門の前には「浄土(往生)礼讃根元の地」と石柱が建っています。

 

『往生礼讃』とは中国の善導大師が、阿弥陀如来のご本願を信受した行者が

日沒、初夜、中夜、後夜、尋朝、日中の六時に分けて実修すべき行儀礼法を明かされたものです。

その『往生礼讃』に住蓮房と安楽房が天台(大原魚山)の譜曲をつけて

「六時礼讃声明」を完成しお勤めされていました

 

本願寺でも蓮如上人までは日夜お勤めになっていましたが、

現在ではご正忌報恩講にお勤めになります

 

山門をくぐると本堂があります。

本堂中央には阿弥陀如来座像、観音・勢至二菩薩、地蔵菩薩、龍樹菩薩のお木像があり、

右側には住蓮、安楽二上人のお木像、左側には法然聖人の張子像、親鸞聖人、十一面観音菩薩の

お木像が安置されています。

親鸞聖人がご使用されていたという杖と蓑笠もありました

 

鹿ヶ谷草庵での「六時礼讃」のお勤めは多くの人々の拠り所となったと同時に

法然聖人、親鸞聖人の流罪のきっかけともなります

 

法然聖人が念仏往生の教えに帰依されたのは、善導大師の『観経疏』にあるご文にありました。

「称名念仏こそが往生の行である。それは阿弥陀仏の本願の意に順ずるからである。」

法然聖人は、お念仏は阿弥陀如来が本願に選び取られた往生の行である事について、

阿弥陀如来の平等の救いを人々に教化されました。

それは老いも若きも、男も女も、財力がある人もない人も、立派な修行に耐えられる人も耐えられない人、又職業や能力など、一切の分け隔てのない平等の救いです。

ただ本願を信じ、お念仏申す人を阿弥陀如来は必ず救うと本願に誓われていたのです

 

その教えを聞くために人々は法然聖人のいらっしゃった吉水の草庵に、

又、この鹿ケ谷草庵に集い、益々お念仏の教えが広まっていったのでした。

しかし、その事で聖道門の教団や奈良の興福寺より「念仏停止」の声が強まります。

 

そのような状況の中、後鳥羽上皇の女官として仕え、寵愛されていた松虫姫と鈴虫姫の姉妹も

法然聖人から受けた念仏の教え以外に救われる道はない、と、住蓮、安楽坊が催した別時念仏に足を運び、その場で出家し、尼僧となる事件が起きました。

 

この事を知った上皇は激怒、この事件をきっかけに、建永二年(1207)専修念仏は停止・弾圧され、

住蓮、安楽坊は斬首刑、法然聖人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪となったのです(承元の法難)

 

 

住蓮房と安楽房のお墓。

承元の法難の後、鹿ケ谷草庵は荒廃しましたが、流罪地から帰京した法然聖人が草庵を復興し、

現在の「住蓮山安楽寺」として再建されました

 

「往生礼讃」のご文。

自信教人信 難中轉更難 大悲傳普化 真成報佛恩

 

法然聖人はご流罪になった事を「恨んでいません。それどころか希望していた

地方にお念仏を勧め、ひろめるご縁ができました。これは朝廷のご恩というべきです。

お念仏の教えがひろまる事は人が止めようとしてもそれは決して止まるはずはありません。」

と話して土佐に向かわれたそうです。

親鸞聖人もご流罪にあわれた事で、越後から関東へお念仏をひろめられる事となりました。

 

住蓮・安楽房の辞世の句

「極楽に 生まれむことの うれしさに

        身をば佛に まかすなりけり」  住蓮上人

「今はただ 云う言の葉もなかりけり

        南無阿弥陀仏の み名のほかには」 安楽上人

 

若葉が力強く繁っていました。                           合掌

 

(果)




 

 


春のお彼岸 京都編

2012-03-18 17:45:28 | 京都便り

3月16日に大谷本廟へお参りに行きました




大谷本廟ではお彼岸の準備の真っ最中。
花文字もまだ半分だけの出来上がりでした。


ちょうど前日得度式を受けられた僧侶方がお参りに来られていました。
坊主頭に黄袈裟が、まぶしー


そういえば私のお得度も3月で、早朝に春の気配を感じながら清々しい気持ちで
お参りに来たことを思い出しました



毎月16日には参道で「ほんびょうさんの朝市」が開催されます。


無添加で手作りのケーキや安全な農法の野菜、珈琲、日用品や雑貨などのお店が並びます。
この時はあいにく早朝だったのでまだ準備中でした。

昨年から始まった「ほんびょうさんの朝市」も少しづつ定着してきて、
昼間はたくさんの人で賑わいます



さてさて、
今月の掲示板は

この言葉は仏典に出てくるお釈迦様のお言葉です。

あるところにキサーゴータミーという女性がいました。
彼女は幼い一人息子を亡くし悲しみにくれて、愛する息子をなんとか生き返らせたいと
お釈迦様のもとを訪ねて生き返らす薬を求めます。
お釈迦様は「ケシの実を持ってきたら薬を作りましょう。ただし、そのケシの実は
誰も死者の出ていない家からもらってくるように」と言われました。

キサーゴータミーは急いでケシの実をもらいに街に出ます。
けれども、街中の家を回って尋ねても、死者の出ていない家は一軒もありませんでした・・・。
        
キサーゴータミーは、どこの家にも死があり愛する人との別れがある事に気づかされます。
死は生きる者誰もが逃れることのできない事だと知り、生死という根本問題を自分自身の事としても向き合った彼女は、出家して生死を超えた仏の悟りの世界を求めることとなりました。

そんな彼女にお釈迦様は次の詩を送られました。
「不死の境地(彼岸)を見ることなしに 百年間も生きるより
 たとえ刹那(一日)の生であれ 不死の境地(彼岸)を見られれば
 これより勝ることはない」  『ダンマパダ・アッタカター』


生死輪廻(しょうじりんね)の苦しみを超えた悟りの世界を求めることが、本当の苦しみの問題を解決する事であると教えてくださっています。


私達は日頃「生」と「死」という根本的な問題を後回しにしてその日暮らしをしています。
キサーゴータミーが愛する息子の死を通して自分自身の問題として気づかされたように、
お彼岸を機縁としてお仏壇やお墓に手を合せ、改めて「生死」の問題を自分の問題としてしっかり向き合い、仏様の教えを聞かせていただきたいと思うことです       合掌


(果)





聲明の源流

2012-02-10 19:21:10 | 京都便り

京都市下京区にある正光寺さんで毎年行われる「聲明(しょうみょう)の夕べ」が

今年も開催されました。

聲明とは、もともとお釈迦様が説かれたお経や、高僧のお言葉に旋律をつけて

覚えやすく保ちやすくしたものだそうです。

西洋音楽が「音と音」をつないでメロディを紡いでいくのに対して、

聲明は「決められた短い旋律と旋律」をつないで曲ができあがります。

それによって唱える者の感情表現が厳しく規制され、涅槃の世界へ通ずる音曲と

なるのだそうです

 

今年の聲明の夕べは『五会念仏略法事讃』、『正信念仏偈』がお勤めされました。

五会念仏は、中国の後善導と呼ばれる法照禅師が五台山にて修しておられた

念仏の法会で、『無量寿経』に説かれる西方浄土の遍満する微妙なる音楽から

『宮、商、角、徴、羽』の五つの音に寄せて五会の念仏を作られました

その五台山の念仏を平安初期の日本に伝え、比叡山東塔に常行三昧堂を建て

修されたのが、天台宗第三代座主の慈覚大師円仁です。

ここから天台宗比叡山にて、各浄土系の宗派にとっての念仏の源流となる

西方浄土へ往生を願う法会が始まりました

その後五会の念仏は京都大原の地で「魚山聲明」として現在まで伝承され、

現在「魚山聲明」の血脈を受け継ぐ魚山法師は、水原夢江師のみです。

水原師は「魚山聲明」の正当伝承者として、数々の曲の伝承と復元、

後進の指導等聲明復興にご尽力をそそいでおられます

 

 

「聲明の夕べ」に出勤された僧侶。浄土宗の方もおられました。

皆さんがおつとめされる謦明はとても美しく体の芯まで伝わってきました

 

本願寺派の聲明の源流も「魚山聲明」との事なのですが、時代と共に移り変わり、

現在はかろうじてその片鱗が伝わっている状況です。

浄土真宗本願寺派正光寺の大八木先生は、水原師の聲明を聞き大きな感銘を受けられて

十数年前に水原師に師事され、伝承が途切れないようにと毎年「聲明の夕べ」を開催され、

今年は第八回目となりました。

今年は親鸞聖人750回忌ご正当の年、また奇しくも慈覚大師の1150年の遠忌の年だそうで、

『正信念仏偈』を慈覚大師を讃えた『慈覚大師御影供』のなかの節をつけてお唱えされました。

ゆったりと朗朗となんとも味わい深く拝聴させていただきました

 

 

ぼんぼりとろうそくの明かりだけでお勤めになります。

聲明が伝承されてきた電気のない時代に思いを馳せてのことだそうです

法要中の柄香炉への供香や五体投地など現在本願寺派では途絶えている

作法も取り入れられます。

五体投地にはいつも感動します

 

「いつの日か、本願寺の聲明の中に、「魚山聲明」が復活し、時代の変化に沿って

日々進化する聲明と、かたくなに古来の伝承を守る聲明とが並立する日が来ることを

夢見ております。この伝統聲明の再興が、仏法が広まる一助になればと

願ってやみません。」 By大八木先生

左側に立っておられるのが、今回ご導師をつとめられた清岡大地先生、

右側が大八木先生です

 

人の声って繊細な音、おなかに響く音、すごいなあと思いました。

それを出させる聲明にはすごい力があると思います。

大八木先生は、聲明は音だけをきれいにひろって唱えるのではないといつもおっしゃいます

聲明は、例えば木の葉が枝からはらりと落ちる様子、さざ波がたっている様子など、

それぞれの旋律にイメージがある事を教えてくださいました。

それになによりも、仏様に向かう姿勢、ご文の意味などを含めて初めて聲明と

いえるのかもしれません。

大八木先生は水原師に聲明を通してその音曲だけでなく、「僧侶の姿勢」とも言うべきものまで

教えていただいたとおっしゃいますが、その事を身をもって私たちにも教えて下さっています。

この度の「聲明の夕べ」では『正信念仏偈』を慈覚大師の節で聞かせていただき、

念仏の源流という事に思いを馳せながら、仏様への姿勢の原点を

見させていただいたように思いました

 

「聲明の夕べ」は毎年一月最後の土曜日に開催されます。

(果)


親鸞聖人750回大遠忌法要の後

2012-01-17 20:01:01 | 京都便り

親鸞聖人750回大遠忌法要は2012年1月16日のご満座をお迎えして幕を閉じました。

 

法要前に住職と記念撮影(お互い歳をとりましたね

 

控え室では300人余りの出勤者で大わらわ

昨年の四月から計65日間、115座の法要があり、なんと皆勤で出勤された方もおられます

法要後に皆勤の方には本願寺より花束を贈呈されました。

 

又、一月九日よりのご正当に全出勤された方にはこちらの記念品。

ご門主が法要期間中に散華された華把でした。(華把は出勤僧侶のよりも一回り大きい

 

この日の参拝者は約5,000人、立ったまま参拝される方もおいでで、堂内は満杯。

おかげでたくさんのお念仏が響きわたっていました

昨年の四月から始まった大遠忌法要は述べ140万人の方が参拝されたとの事です。

 

参拝の方々が帰っていかれました。

 

期間中力強い音を響かせてくれた大太鼓。打たれていた箇所が剥げています。

お疲れさまでした。

 

スタッフの方が毛布を片付けておられました。

3,000席の椅子が設置されていて、毛布は1人に2枚あたるように6,000枚用意されていたとの事。

京都の冬は特に寒いので、少しでも心地よくお参りしていただこうとの心遣い

お疲れ様です。

 

白洲でもきれいに掃除されていました。ありがとうございます。

 

阿弥陀堂では、それぞれが思い思いに仏様の前に座っておられる方たちが。

お荘厳はまだそのままでしたが、もういつもの風景に戻っていました。

 

沢山のスタッフ、警備の方、地域の方、報道関係者、工事関係の方、

電気屋さん、お米屋さん、お花屋さん、おろうそく屋さん、お線香屋さん、法衣屋さん・・・

参拝されたご門徒さま、出勤僧侶、

又参拝するのを暖かく見守って留守番をされたご家族、

本当に目に見えない数え切れない沢山の方々に支えられてこの法要が勤まったんですね

お念仏のはたらきのなか、多くの方々が慶んで親鸞聖人750回大遠忌のご勝縁に携わっておられた。

 

思えば今私に届いているお念仏も数え切れない沢山の方々によって伝えてくださったおかげ様です。

大遠忌法要が終わって寂しい気持ちもありますが、このお念仏を次の世代、

800年850年と繋げていく一人でありたいと改めて思った事です

(果)


親鸞聖人ご誕生の地(後編)

2011-12-13 20:43:12 | 京都便り

京都は伏見、日野の里でお生まれになった親鸞聖人は

お得度されるまでの幼少期をこの地で過ごされました。

 

日野の由来は中臣鎌足(藤原鎌足)が社殿を造営して、

奈良の春日野にちなみこの地を春日野と名付けられたのが始まりです。

伝説によると、春日野と書いた看板を山の上にあげていたところ、

春の字だけがなくなっており、鹿に食べられてしまったとか・・

当時興隆の地であった春日野と同じ地名にするのは、やはりおこがましかった・・

と、地名を日野に改められたそうです。

 

藤原北家の初代真夏から7代の孫、資業が自ら出家して法界寺を建て日野氏を称するようになり

それから4代後に親鸞聖人は法界寺でお生まれになったと伝えられます。

 

石の下に親鸞聖人のへその緒が埋められているそうです

 

聖人の産湯として使われた井戸

 

 

法界寺は日野家の菩提寺で、弘仁13年(822)に慈覚大師円仁より送られた

伝教大師最澄自刻の薬師如来の小像(9cm)を、80cmの薬師如来像の胎内に収めて

薬師堂を本堂とし、日野薬師、乳薬師として親しまれています。

(当時は天台宗、現在は真言宗醍醐寺派)

山門からの眺め

 

藤原時代の浄土教の流行、末法思想の影響で、極楽浄土の具象化とされた宇治の平等院鳳凰堂と

相前後して法界寺の阿弥陀堂が建立されたそうです。

当時は観音堂や三重塔、五大堂や地蔵塔など多くの堂塔が立ち並んでいたそうですが、

後に織田信長の兵火に焼かれ、現存しているのは阿弥陀堂だけとの事。

 

阿弥陀堂の中に入ってみました。いきなり阿弥陀如来の座像が目の前に

残念ながら、撮影は禁止

丈六(約4.85m)の阿弥陀如来像は定朝様式だそうです。

阿弥陀堂は阿弥陀如来を囲ってあるだけのよう・・いわゆる狭くて、

その分阿弥陀様がより大きく見えて、しかもすごく近くで見上げるんです

阿弥陀如来像の周りをぐるっと回れました。

古い四本の柱には十二光仏、その上の漆喰の壁には飛天が舞っているのが見て取れます。

光背に透かし彫りの飛天光、天蓋、天井も素晴らしかったです

きっと当時はもっときらびやかで、本当に浄土を思わせる空間だったのでしょう。

 

何よりも、大きな阿弥陀如来が間近な事に感動しました

まだ幼く小さな親鸞聖人にすれば、もっともっと大きく見えてその存在感は圧倒的だった事と思います。

今目の前におられる阿弥陀様に、毎日手をあわせておられる幼少の聖人を想像しました。

お父様と又はお母様に手をひかれ、ご一緒に阿弥陀様に手を合わせ、

絶対的な安心感に包まれていらっしゃった。

ご両親と別れられて一人になっても、きっと合掌されながら仏様に語りかけておられた事でしょう。

悲しいときも苦しい時も歓びの時も合掌し、仏様に育まれていかれた親鸞聖人・・

阿弥陀如来は、いつも同じ慈しみの目で聖人に暖かく語りかけておられたのでしょう。

風光明媚な日野の里で過ごされた親鸞聖人。

 

後にお念仏の道を歩まれて、阿弥陀如来のお心を明らかにしてくださった聖人は

いつもいつも幼少時代に手を合わせた阿弥陀様に聴き続けられていたのだと思いました

 

京都にお越しの際は、少し足を伸ばして日野の里を訪ねてみてください。

絶対オススメします

(果)