天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

お経サークル

2006-10-29 17:49:26 | 天真寺
今日は月に一度のお経サークルの日。
今練習が終わったところです。
皆さんと楽しく、わいわい和やかな時間となりました。

来月は報恩講。
法要前、午前中には「天真寺門信徒会入門式」があります。
そこではこのサークルから代表して、何人かの方にお勤めをお願いする予定です。
来月はその練習にしましょうと、話し合いました。
お披露目が楽しみです。

練習後のお茶の席では、Yさんが富山名産の可愛らしいお菓子をお持ち下さり、Tさんが美味しいお団子やお漬物、唐揚げを作ってきて下さいました。
(全部美味しいのですが)特に唐揚げは絶品。
美味しくてたくさんいただきました。
ごちそうさまでした!

また来月も頑張ります。

(静)

七五三

2006-10-28 18:12:30 | 日々
今日はお寺で七五三をしました。
皆さんお宮参りと同じく神社にお参りされますので、お寺にお参り下さるというのはなかなかなく、ありがたいことです。

七五三のウンチクを調べてみますと、色々とありました。

11月15日を中心にしたその前後の日曜日になると5歳の男の子と3歳と7歳の女の子が晴れ着を着飾って神社詣でをする風景が見られます。いわゆる『七五三』 ですが、何の由来があってあのようなことが行なわれるようになったのか?

当たり前に行事として定着していましたから、私はその由来を全く知りませんでした。
今日をご縁に若住職が調べていたのを盗み見して、なるほどと感心しました。
ちょっと長いですけど、お時間のある方はぜひ読んでみて下さい。




この習慣には日本人の生活や慣習や決まりの中にあった、いろいろな要素が組み合わさっています。昔の村落には生まれた子どもはすぐに村の構成員とは認められず、ある年齢になって初めて村落共同体の一員として認められるようになるという掟や取り決めがありました。その年齢が、男の子が5歳で女の子が3歳でした。

また、7歳は幼児から少年少女への折り目だと考えられていました。ですから3歳、5歳、7歳のうちで、最も古くから折り目の行事を行なったのは7歳のときで、そのときは今のような参拝ではなく、何かのお祭りをやったものと思われます。また、人別帳や氏子の登録も3歳を過ぎて7歳ぐらいまでに行なわれました。これでやっと村の子ども組に参加できるようになり、村の中での権利と義務が生じてくるようになったのです。

武家社会になると5歳になった男の子は「はかまぎ」7歳になった女の子は「おびとき」のお祝いをする風習も生まれました。また、鎌倉時代以降になると公家では2歳、武家では3歳に「かみおき」のお祝いを行いました。これは、赤ちゃん時代からやっていた髪を剃ることをやめる行事です。そして武家ではこれを11月15日に行なって、それは室町時代から江戸時代まで行なわれていますがこの習慣は広く民間にも伝わったようです。この「かみおき」の儀式の後は土地の産土神に参拝し髪の成長を祝ってお祝いの食事が作られました。こうして次第に現在の『七五三』のお祝いが成立してきたのです。

このお祝いがほぼ全国的に11月15日に定着したのは明治以降で、それまではその年齢の誕生日などがあてられている地域も多かったようです。なお、11月15日と『七五三』が結び付いたのは民俗的なお祭りである「霜月祭」にその日があたっていることが由来だと考えられています。


・・・とのこと。
現在では、子供の無事な成長を願って神社でお祓いをしてもらう行事というところでしょうか。
女の子も男の子も可愛らしい晴れ着を着て写真を撮ったりと、成長の大きな節目として迎えます。

もちろん無事な成長はどんな子供にも望まれること。
けれど生きている限り、悩みは尽きず、苦しみも悲しみの経験しなければならないのが現実です。
お祓いで一時的な気休めや安心を得るのではなく、
どんなうれしいときでも、どんなつらいときでも、共によろこび悲しんでくれる仏さまがいてくれることを教えてもらう方がどれほど将来の力になり支えになるか分かりません。

これほど定着した行事ですから、これも子供たちがお寺に足を運んでもらう機会になればな~と思ったことです。
またご門徒さんであれば、ぜひ七五三もお寺にお参りし、手を合わせる大切さを共に味わうご縁にしていただけたら、と感じた今日の七五三でした。

(静)

「龍谷会」

2006-10-25 10:01:32 | 日々
11月に入ると、全国のお寺で「報恩講」が勤まります。
「報恩講」とは、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のご命日をご縁に長年勤められてきた法要です。
ご本山では、1月9日~16日に法要が営まれますが、それに先立ち、京都の「大谷本廟」でも「龍谷会」が先日無事勤修されました。

京都に住む大叔母(前住職の妹)が参拝し、その時の想いをまとめてくれました。
また、寺報にも紹介するつもりです。
これを読み、来年は私もぜひお参りしたいな~と感じたことです。


「京都つれづれ」

 10月15日・16日は大谷本廟の報恩講でした。実は私、初めてのお参り。「龍谷会」と云うそうです。本廟は東山五条にあり、このあたりは清水焼の集落で、7月には陶器市で賑わいます。
 
 本廟を入ると、入口に池があり亀が浮いたりお昼寝をしたりしていた。池の中央に花崗岩の切石で造られたゆるいアーチの橋(円通橋。安政3年竣工とある)、続いてゆるい石段が、そこから進むと両側には三色の幔幕が張り巡らされており、五色の幟が風を受けていた。やがて左手に親鸞さまのお像が大きなお念珠を片手に迎えて下さる。
 
 全国各地からお参りらしく、方言や訛りが飛び交い、会館では納骨の人の長い列、墓参の列、今日のお参りの人々。
 
 お勤めの「明著堂」は、工事中の景色ながら、これはこれでみんなの記憶に残ることでしょう。
 お堂は宝永6年、御廟堂の拝堂として創建とあり、正面には本願寺第14代・寂如上人のお筆「明著堂」の額が掛けられ、享保元年とある。
 昔の人の字はいいなと思う。三百年前・・・




 やがて大師作法が始まり、庭儀(一般にはおねりと云いますが)、それぞれの役目の装束、ありったけの彩色で総勢百人位でしょうか。
 御門主様と新門様だけ大きな藁草履をはいておられる。笙・篳篥・横笛の音に参詣人も一緒に包まれて晴天の光の中を式次第がすすみました。

 中央仏教学院の若い僧達は、長時間座らせられ、背を正して聴き入っていましたが、テントからはみ出している学生は、強い陽ざしにさらされ、げんなり顔もいました。
 
 私は浮々して来年もお参りできたらいいなと思い乍ら、その後天真寺のお墓にお参りして帰りました。

京都より 高山美智子


(静)

写経会

2006-10-21 09:30:26 | 天真寺
毎月20日は「写経会」。
今はお正信偈を書いています。

そろそろ、お正信偈は書き終わった方がちらほら。
おうちでも練習される方が多いようです。
私などは月1回のこの時間に筆を持つのがせいぜいなのに。。
皆さんとても熱心です。

今月の話し合いで、来年からは大阪教務所から出ている『手作り経本セット』を使うこととなりました。
これには「重誓偈・讃仏偈」「正信念仏偈」「阿弥陀経」と3種類あり、
写経したものを最後に綴じると、手作りの経本になるというもの。
中には、綴る糸から針までセットになっている優れものです。

自分の書いたお経本なら愛着もわくでしょうし、大切にできそう。
あと、“何かが出来上がる”というのも目標と楽しみができていいかな、と思っています。

ただ浄土真宗では、写経は願成就のために行うものではありません。
忙しい日常の中で、心穏やかに静かな時間を持ち、お経を通して仏さまの教えに遇うご縁です。
ちなみに、『手作り経本セット』の中には、その心得まで説明書きがついていました。
まさに至れり尽くせり。
その内容をご紹介しておきます。

ぜひ皆さんもお時間を作って、写経をしてみませんか。


『経典浄書の意義』

◎勤行(おつとめ)をする事は口と耳を通して法に遇うのと同様に経典の浄書は自らの目・手を通して、直接お釈迦様の教法に遇うことです。

◎如来さまへの「願いごと」としての「納経」とは異なり、自ら浄書・製本して、毎日の「おつとめ」に所持して頂き、お経が生きて働きかけます。

◎お経に親しみ、聞法と合わせてより如来さまなのお慈悲をいただく良き手助けとなります。

◎私の生涯に失うことのない宝です。

◎子供や孫に親の心を伝えます。

◎忙しい日ぐらしの中、静かに私を見つめる機会を与えられます。

◎浄書がお念仏の友の輪を広げます。

(静)

テレフォン相談

2006-10-19 14:54:24 | 日々
仏教情報センターの担当日。



仏教情報センター
とは、
寺や僧侶との関わりが薄れ、仏教の教えに触れることが稀となった現代。
そんな時代のお寺・僧侶・仏教に関する悩み相談窓口であります。


実際に、仏事・信仰だけでなく、人生に関わる悩みや疑問の電話が毎日寄せられています。
「人の数だけ悩みがある」というが本当に様々な悩み相談がかかってきます。

・ある若い僧侶の相談。
『阿弥陀経』には、極楽浄土の様子が金・銀・瑠璃などで表現されている。そのようなお話をしたら、ある御門徒さんから「浄土とは、欲を離れた世界」と説明した方がいいのではないかと指摘された。お浄土をどうお話をさせていただいたらよいのか。

・キリスト教と仏教の違いとは?

・お布施の額はいくら位か。

・東京都に、永代使用料だけで1000万円~2000万円の墓地があるが、それほど高額な墓地は違法ではないのか。

・私の性格は、「人のせいにする」「愚痴を言う」「物事を中途で投げ出す」
    ↓
  人間関係悪化
    ↓ 
   悩む
 
先日の「こころの時間」で仏教のみ教えの基本は「八聖道」である。
その中で「正見」ー現実を見極めながら生きていくー が大切であるといわれていたが、分かっているけれどもできない自分がいる。
つい、自分第一・他を省みない私がいる。
こんな自分は生きていても意味がないのではないか。

本当にさまざまなご相談を受けます。

ブッダは「いかによく生きるか」をお説きになられた。
それは、経済的に豊か物質的欲求をもとめることではない。
いかに今の自分が充実した日々を送るか、「生き上手」になる道であります。

「生きている意味があるのだろうか」
人間誰しも悩むことかもしれない。

が、その悩みで欠けてはならない視点があると思う。
それは、「今、私が生きている」という事実であります。
様々な人の支え、様々な縁(父・母・空気・太陽・動物のいのちなど)の中で生き、生かされている。
まさしく、お陰様の人生であります。

毎回、受話器をお受けしながら、勉強させていただく毎日あります。

(龍哉)