昨日(10月27日)は、台風接近の大雨のなか開催されたクィア学会設立大会に行き、開会の辞とシンポジウムをきいた(会場:東京大学駒場キャンパス)。
開会の辞はクレア・マリィさん(津田塾大学)によって読み上げられた。その要点は、ジェンダーやセクシュアリティーは制度であり、「クィア」として差別されている人の生の質を向上させ、社会の多様性と異種混淆性を保持するためには、(その制度から逸脱した者を対象とする)クィア・スタディーが不可欠であること、またその研究は、批評的創造力をもってすすめていかなくてはならないことなどを訴えるもので、非常に感銘をうけた。
続いて行われたシンポジウムは、「日本におけるクィア・スタディーズの可能性」のタイトルのもと、クィアをめぐる各分野で活動している沢部ひとみさん、砂川秀樹さん、野宮亜紀さん、伏見憲明さん、清水晶子さんをシンポジストに招いて行われた(司会は河口和也さん、堀江有里さん)。途中休憩をはさんで、3時間以上、5人の個性的な考えやその背景をきくことができた。
シンポジウムのおおまかな内容は、①各人の執筆活動について(自己紹介)、②各人の研究、運動、セクシュアリティーの関係性について、ーー具体的には、資本(活動資金)について、世代について(活動を次の世代に伝えていくことのなかで感じる世代差について)、フェミニズムとのかかわりについて、③クィア・スタディーに期待することーーという大きな流れにそって、司会者から5人のシンポジストに質問があり、各シンポジストがそれにこたえ、また必要に応じ、シンポジスト同士の質疑応答や意見交換があった。
ただ、この点はシンポジストも率直に述べていたが、主催者が準備した質問(特に活動資金の問題)がその場にふさわしく、シンポジストとして回答しやすいものであるかには疑問があり、どのような主旨でこのような質問が設定されたのかよく理解できないといった主催者への反問もあっておもしろかった。そのあたりのこと、一般的にいえば、同性愛者は同性愛者に向けて活動を行っている人への豊富な資金源とはいえず、執筆等の活動を維持していくうえで困難を感じることが多いというのがシンポジストの多くから出た声で、なかでも沢部さんの、かつて自分の主たる関心はセクシュアリティーの領域にあったが、50代となりこれからの生活を考えると、リブ的な生活領域の要求に関心が移行しつつあるといえなくもないという発言に、同じ50代として共感を感じた(伏見さんの発言も同主旨で、ある意味でもっと切実なものだった)。
一方、各人の活動とフェミニズムの関係という設問では、各人のおかれている立場の違いが明確にでて興味深かった(たとえば性同一障害者である<あった?>野宮さんの立場と、肉体的に女性である人たちのための運動であるフェミニズムのあいだの微妙な温度差の問題)。
第一回目であることから手探り状態の印象をまぬがれないシンポジウムではあったが、いろいろな立場の人からそれを反映する声がきけて、試みとしては成功ではなかったかとおもう。また、シンポジウムを、堅苦しいものではなく本音の声がとおる場所にしよう(そのためにはあえて狂言回し的役割を引き受けよう)という伏見さんの積極的態度は、非常に印象的だった。
司会者からシンポジストに向けた質問と、相互の意見交換がおわったのち、会場からの質疑応答(問題提起)があり、今後主体としてのクィアの問題だけでなくクィアをとりまく社会の問題もとりあげて欲しい、芸術療法やバイオレンスの問題もとりあげて欲しい、どのようにしたらうまく小説が書けるか教えて欲しいなどのざっくばらんで切実な声があがった。
また、社会規範のあり方を問う「クィア・スタディー」という学問に学としての中立性があるのかという、ある意味で根源的な質問もあった。
ところで私は、ふだん、反近代主義(近代主義批判)という視点から同性愛の問題を考えることが多く、いわゆるLGBTの運動が、個々の権利要求や抑圧からの解放、社会への同化にかたむきがちで、結果として近代主義や現行社会の諸制度を肯定・強化する方向にあり、そこからは同性愛を抑圧している現代社会のあり方そのものに対する疑問が提起されにくいのではないかと感じており、またそれゆえ、仮に個々の社会的抑圧が解消されたとしても新たな抑圧が再生産されてしまい、個々の抑圧の解消が抑圧という事態そのものの根本的な解消につながらないのではないかという懸念を少なからずいだいている。したがって、一種の差別用語である「クィア(変態)」という概念の導入は、そうした問題状況に風穴をあけることになるのではないかと、「クィア」を冠した学会設立に好感をもったので、「クィア・スタディー」という学は中立的なものでなくてもいいのではないかと私見を述べさせていただき、また各シンポジストの研究や活動のなかで、反近代主義はどのように位置づけられるかという主旨の質問をし、清水さん、砂川さん、野宮さんから回答を得た。
私が理解した範囲でその回答を簡単に紹介すれば、清水さんの回答は、「LGBTという枠のなかでできる近代主義の問い直しもあれば、クィアという枠のなかでできる問い直しもあり、それらは排除しあうものではない」というもの、砂川さんの回答は、「文化人類学者としての自分の立場からしても、反近代主義は大きな課題である」というもの。ちなみに、砂川さんのいう表象分析と言説分析からのクィアへのアプローチという方法論には、共感をおぼえた(あえてそれを補足すれば、個人の内面ではなく「クィア」という外在的な観点から同性愛にアプローチするという研究のあり方そのものが表象分析的ということになるのではないかとおもう)。また野宮さんの回答は、「近代主義を問うということを念頭におきながら、自分としてはとりあえず近代主義の枠のなかで活動している」というものであった。
またこの記事の最初にも書いたように、大会の冒頭クレア・マリィさんによって読み上げられた開会の辞に、私は大変感銘を受けたのだが、辞のなかで用いられたキーワードの一つである「批評的創造力」という言葉には、日本語として違和感をおぼえたので、休憩時、彼女にそのむねの私見を伝えた。つまり、この「批評的」という言葉は、英語でいえばcriticalにあたるものではないかとおもいながら開会の辞をきいていたのだが、とすれば、その訳語としてはむしろ「批判的」の方がふさわしくないかと感じたのだ。思想用語として考えると、「批評的」という日本語は、その中立性・客観性に、どうしても態度としてのある弱さを感じてしまう。ただ逆に、「批判的」という言葉は強い言葉ではあるので、それを配慮して「批評的」という訳語が選ばれたのかとはおもったが、それにしても、この言葉からはなにかしら不鮮明な感じがしてしまう。ちなみにその場でのクレア・マリィさんの返事は、私が指摘した点は開会の辞を準備する段階でも問題となり、その時点での結論として「批評的」を選んだが、必ずしもそれがベストかは断定できないので、私の意見は、会場からの声としてメンバーにフィードバックしておこうというもの。開かれた態度に好感をおぼえた。
九州や大阪など遠方からの参加者の声にもあったが、悪天候にもかかわらず、この大会が準備された会場に入りきれない数百人の聴講者をあつめたということは(会場に入りきれない聴講者は別室のモニターをとおしシンポジウムをきいた)、関係者の関心がそれだけ高いということの証拠であり(ただしこの点に関し、伏見さんは、悪天候にもかかわらず昨日来場した人はもともとかなり関心の高い人であり、出席者が多いということに甘んずることなく、来場できなかった人にどのように学会設立の狙いや意図を伝えるかが課題ではないかと、指摘した)、学会としては、まずは順調な滑り出しといえるのではないかとおもう。
シンポジウム終了後、設立総会と懇親会が開かれたが、昨日は夕方からアルバイトがあったため、後ろ髪をひかれながら暴風吹きすさぶ会場を後にした。
【参照】クィア学会公式サイト http://queerjp.org/
開会の辞はクレア・マリィさん(津田塾大学)によって読み上げられた。その要点は、ジェンダーやセクシュアリティーは制度であり、「クィア」として差別されている人の生の質を向上させ、社会の多様性と異種混淆性を保持するためには、(その制度から逸脱した者を対象とする)クィア・スタディーが不可欠であること、またその研究は、批評的創造力をもってすすめていかなくてはならないことなどを訴えるもので、非常に感銘をうけた。
続いて行われたシンポジウムは、「日本におけるクィア・スタディーズの可能性」のタイトルのもと、クィアをめぐる各分野で活動している沢部ひとみさん、砂川秀樹さん、野宮亜紀さん、伏見憲明さん、清水晶子さんをシンポジストに招いて行われた(司会は河口和也さん、堀江有里さん)。途中休憩をはさんで、3時間以上、5人の個性的な考えやその背景をきくことができた。
シンポジウムのおおまかな内容は、①各人の執筆活動について(自己紹介)、②各人の研究、運動、セクシュアリティーの関係性について、ーー具体的には、資本(活動資金)について、世代について(活動を次の世代に伝えていくことのなかで感じる世代差について)、フェミニズムとのかかわりについて、③クィア・スタディーに期待することーーという大きな流れにそって、司会者から5人のシンポジストに質問があり、各シンポジストがそれにこたえ、また必要に応じ、シンポジスト同士の質疑応答や意見交換があった。
ただ、この点はシンポジストも率直に述べていたが、主催者が準備した質問(特に活動資金の問題)がその場にふさわしく、シンポジストとして回答しやすいものであるかには疑問があり、どのような主旨でこのような質問が設定されたのかよく理解できないといった主催者への反問もあっておもしろかった。そのあたりのこと、一般的にいえば、同性愛者は同性愛者に向けて活動を行っている人への豊富な資金源とはいえず、執筆等の活動を維持していくうえで困難を感じることが多いというのがシンポジストの多くから出た声で、なかでも沢部さんの、かつて自分の主たる関心はセクシュアリティーの領域にあったが、50代となりこれからの生活を考えると、リブ的な生活領域の要求に関心が移行しつつあるといえなくもないという発言に、同じ50代として共感を感じた(伏見さんの発言も同主旨で、ある意味でもっと切実なものだった)。
一方、各人の活動とフェミニズムの関係という設問では、各人のおかれている立場の違いが明確にでて興味深かった(たとえば性同一障害者である<あった?>野宮さんの立場と、肉体的に女性である人たちのための運動であるフェミニズムのあいだの微妙な温度差の問題)。
第一回目であることから手探り状態の印象をまぬがれないシンポジウムではあったが、いろいろな立場の人からそれを反映する声がきけて、試みとしては成功ではなかったかとおもう。また、シンポジウムを、堅苦しいものではなく本音の声がとおる場所にしよう(そのためにはあえて狂言回し的役割を引き受けよう)という伏見さんの積極的態度は、非常に印象的だった。
司会者からシンポジストに向けた質問と、相互の意見交換がおわったのち、会場からの質疑応答(問題提起)があり、今後主体としてのクィアの問題だけでなくクィアをとりまく社会の問題もとりあげて欲しい、芸術療法やバイオレンスの問題もとりあげて欲しい、どのようにしたらうまく小説が書けるか教えて欲しいなどのざっくばらんで切実な声があがった。
また、社会規範のあり方を問う「クィア・スタディー」という学問に学としての中立性があるのかという、ある意味で根源的な質問もあった。
ところで私は、ふだん、反近代主義(近代主義批判)という視点から同性愛の問題を考えることが多く、いわゆるLGBTの運動が、個々の権利要求や抑圧からの解放、社会への同化にかたむきがちで、結果として近代主義や現行社会の諸制度を肯定・強化する方向にあり、そこからは同性愛を抑圧している現代社会のあり方そのものに対する疑問が提起されにくいのではないかと感じており、またそれゆえ、仮に個々の社会的抑圧が解消されたとしても新たな抑圧が再生産されてしまい、個々の抑圧の解消が抑圧という事態そのものの根本的な解消につながらないのではないかという懸念を少なからずいだいている。したがって、一種の差別用語である「クィア(変態)」という概念の導入は、そうした問題状況に風穴をあけることになるのではないかと、「クィア」を冠した学会設立に好感をもったので、「クィア・スタディー」という学は中立的なものでなくてもいいのではないかと私見を述べさせていただき、また各シンポジストの研究や活動のなかで、反近代主義はどのように位置づけられるかという主旨の質問をし、清水さん、砂川さん、野宮さんから回答を得た。
私が理解した範囲でその回答を簡単に紹介すれば、清水さんの回答は、「LGBTという枠のなかでできる近代主義の問い直しもあれば、クィアという枠のなかでできる問い直しもあり、それらは排除しあうものではない」というもの、砂川さんの回答は、「文化人類学者としての自分の立場からしても、反近代主義は大きな課題である」というもの。ちなみに、砂川さんのいう表象分析と言説分析からのクィアへのアプローチという方法論には、共感をおぼえた(あえてそれを補足すれば、個人の内面ではなく「クィア」という外在的な観点から同性愛にアプローチするという研究のあり方そのものが表象分析的ということになるのではないかとおもう)。また野宮さんの回答は、「近代主義を問うということを念頭におきながら、自分としてはとりあえず近代主義の枠のなかで活動している」というものであった。
またこの記事の最初にも書いたように、大会の冒頭クレア・マリィさんによって読み上げられた開会の辞に、私は大変感銘を受けたのだが、辞のなかで用いられたキーワードの一つである「批評的創造力」という言葉には、日本語として違和感をおぼえたので、休憩時、彼女にそのむねの私見を伝えた。つまり、この「批評的」という言葉は、英語でいえばcriticalにあたるものではないかとおもいながら開会の辞をきいていたのだが、とすれば、その訳語としてはむしろ「批判的」の方がふさわしくないかと感じたのだ。思想用語として考えると、「批評的」という日本語は、その中立性・客観性に、どうしても態度としてのある弱さを感じてしまう。ただ逆に、「批判的」という言葉は強い言葉ではあるので、それを配慮して「批評的」という訳語が選ばれたのかとはおもったが、それにしても、この言葉からはなにかしら不鮮明な感じがしてしまう。ちなみにその場でのクレア・マリィさんの返事は、私が指摘した点は開会の辞を準備する段階でも問題となり、その時点での結論として「批評的」を選んだが、必ずしもそれがベストかは断定できないので、私の意見は、会場からの声としてメンバーにフィードバックしておこうというもの。開かれた態度に好感をおぼえた。
九州や大阪など遠方からの参加者の声にもあったが、悪天候にもかかわらず、この大会が準備された会場に入りきれない数百人の聴講者をあつめたということは(会場に入りきれない聴講者は別室のモニターをとおしシンポジウムをきいた)、関係者の関心がそれだけ高いということの証拠であり(ただしこの点に関し、伏見さんは、悪天候にもかかわらず昨日来場した人はもともとかなり関心の高い人であり、出席者が多いということに甘んずることなく、来場できなかった人にどのように学会設立の狙いや意図を伝えるかが課題ではないかと、指摘した)、学会としては、まずは順調な滑り出しといえるのではないかとおもう。
シンポジウム終了後、設立総会と懇親会が開かれたが、昨日は夕方からアルバイトがあったため、後ろ髪をひかれながら暴風吹きすさぶ会場を後にした。
【参照】クィア学会公式サイト http://queerjp.org/
それを読む限り、クィア学会としては、まずは順調では全く無い滑り出しですよ。
相変わらずクィア業界(ゲイ・アクティビスト)は内紛が絶えない印象がありますね。
あのときは伏見さんもパネラーの一人として発言して会場をわかせ、また大会そのものも熱気であふれていましたが、それを持続させるというのは、やはり難しいということなのでしょうか。