闇に響くノクターン

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「清盛、50の宴」におもう

2012-08-26 23:23:51 | 『平清盛』
本日の『平清盛』~「清盛、五十の宴」は、ドラマとしては非常におもしろかった。しかし、前回も書いたように、基房、兼実の兄弟が老人貴族にしか見えないのは、どうしても興覚めである(特に兼実)。実力をともなわない若い二人が平氏に反発するのは、有職故実を重んじているためというよりは、やはり摂関家の荘園継承問題のしこりが大きいとおもう。
なかでも兼実は、『玉葉』という細かい日記を残しているため、この時代のうるさ型貴族の典型と見られがちなのだが、摂関家の弟がうるさ型で細かい日記を残しているという点では、兼実は叔父・頼長によく似ているとおもう。これは、年齢のハンディキャップを跳ね返して兄の地位を超えるためには、二人とも、自分には兄以上の能力があるということを、周囲に対してつねにアピールしなければならない立場にあったということではないだろうか。そうした兼実が知性をアピールしたもう一つの武器が和歌だ。
そうした点から今回のドラマを観ると、兼実と清盛の末弟で野人のような風格の平忠度(兼実より5歳年上)が和歌を競い合うという設定(おそらくありえない)が、やはりとてもおもしろく、とりわけ華麗な忠度の和歌が強く印象に残った。
ドラマのなかで二人が最初に披露した「恋」の歌を再掲しておく。

  帰りつる名残の空をながむれば 慰めがたき有明の月 (兼実)

  たのめつつ来ぬ夜つもりのうらみても まつより外のなぐさめぞなき (忠度)

忠度の和歌のどこに感心したかというと、これは大河ドラマのなかでも開設していたが、まず、「つもり」という言葉に、表面上の「(来ない夜が)積もる」という意味だけでなく、「津守=船着き場の番人」という意味が隠されている。それが次の「うらみ」に繋がるわけだが、この言葉は、表面上の意味は「(男が来ない夜の)恨み」で、水面下の意味は、「(船着き場の番人は)浦を見ている」となる。下の句に移って、「まつ」は、表面上は「待つ」であり、水面下では「(船着き場の浦にはえている)松」ということになる。以上の掛詞をふまえて全体をみると、表面上の、「(男を)たのみにしているのに来ない夜が積もって、恨んではみるのだが、それでも待つ以外のなぐさめはないのだなあ」という意味の下に、「船着き場の番人がぼんやりと浜辺の松を見ている」という光景がダブる。それが心象風景となって、待つ恋にドラマ性を付与しているのだ。大河ドラマのなかでは、この和歌は即興の和歌という設定のようだが、これだけの和歌は、即興ではまず詠めない。
参考までに忠度の生年を掲げておくので、他の人物と比較していただきたい。

平 忠度 天養元年(1144年) 22歳 (永万二年時点)

清盛が太陽を呼び戻すというエピソードがこの宴会の逸話として挿入されるのも、ドラマとしては自然な流れで、説得力があった。
清盛を父としたう牛若丸が宴会に闖入してくるのも、ドラマとしてはまあ許せる。

納得できないのは、源頼政と北条時政が旧知の間柄で、頼朝の伊豆の配所で出会うという設定だ。この時期、頼朝が敗者ではあるが源氏の嫡流として頼政などに注目されていたということは、歴史認識の根幹にかかわる部分なので、私としては承伏しがたい。この時代の頼朝の位置づけに関しては、近刊であれば『頼朝の武士団』(細川重男著、洋泉社)が明快に語っている。要するに、「嫡流」という位置づけは、鎌倉幕府成立後に頼朝政権を正統とするためにつくられたのであって、それ以前に源氏の嫡流というものはなかったということだ。仮に頼政のなかに嫡流意識があったとすれば、それは、平治の乱を生き残った自分こそが結果的に源氏の嫡流だという意識ではないだろうか(それゆえ、後に以仁王の誘いに応じる)。伊豆守とはいえ、頼政が頼朝の存在を意識するということはなかったのではないだろうか。そもそも、頼政のなかに源氏と平氏を対比させるとか、反平氏的感情があったか疑問だ。
「嫡流」に関しては平氏をみても同じことで、清盛が嫡流なのか、その嫡流が誰なのかは、みな結果論だ。また、摂関家でも天皇家でも事情はほぼ同じ。
役者の年齢設定よりも、これは重大な問題だ。