『薔薇園』に戻ろう。
実は前々回の内容紹介は、じっくり読むため、意図的に第五章「愛と青春期について」を飛ばしてある。そしてこの第五章こそ、『薔薇園』のみならず、私がスーフィズムについて、社会的背景を含めじっくり考えてみたいとおもったそもそもの原因である。
前置きはこのくらいにして、第五章を開いてみよう。巻頭に記してあるのは次のエピソード。
「人々がハサン・マイマンディーに向かって言った。「マハムード王のもとにはあまた美男の奴隷がいまする。いずれも世に比類なきものどもであるのに、アイヤーズほどに彼らを好みも、愛しようともなされませぬ。格別アイヤーズが彼らにまさって美しいというわけでもないのに!」と。」(以下省略、第五章物語1)
そう、この章は同性愛(少年愛)を中心主題とする章なのだ。周知のように、イスラームでは同性愛は禁忌である。それを正面から取り上げるというのは、やはり社会理念にとらわれないスーフィズムゆえの現象といえるだろうか。しかし同性愛という主題を取り上げるにあたり、サーディーは慎重に、まずマハムード王の事例に言及し、当時のイスラーム社会のなかでは君主をはじめとして同性愛が広く行われており、事実上取り締まることはできないと釘をさす(マハムード王とアイヤーズについては、小ブログ『ハーフィズを読む①ーー同性愛の視点から』<3月15日>参照)。
少し先では次のような問答も紹介される。
「人々が博士に問うて言った。「もし人が月とまごう美貌(の若者)と、衆目を避けて、同席し、戸を閉ざし、友だちが寝こんでしまった時、欲情が起り、色情制するに由なく、アラブ人の言葉のように『棗椰子熟して番人が防げない』時、自制心によって事なきを得ましょうや?」と。答えて曰く、「たとえ美貌の主について事なきを得ようと、到底誹謗者の誹りを免れることはできまい!」と。
(挿詩省略)
人は自分の行ないを制することはできよう、しかし他人の口を封ずることはできぬであろう!」(第五章物語11)
ただし蒲生礼一氏(東洋文庫)が上のように「美貌(の若者)」とやや曖昧に訳しているこの物語の主題を、澤英三氏(岩波文庫)は次のように明確に男女の関係と解して訳しており、どちらが正しいか、にわかには判断できない。
「人々が、ある学者に、「一人の者が、月のような美人と密室に坐し、戸という戸は閉め切られて、見張人たちは皆眠りこけ、情欲は激し、煩悩に征服され、アラビヤ人が、『なしめやしの実は熟し、見張人は制止しない』というような場合、人は禁欲の腕の力によって、無事にそれから逃れ得るだろうか」と尋ねたら、学者はこう答えた。「たとえ、月のような美人たちから完全に逃れ得ても、悪口屋たちの舌から非難されずに逃れられまい。」(以下省略)」
この物語、内容的には同性愛としても異性愛としてもいちおう理解はできるのだが、個人的には「月のような(冷たい)美貌」というのは、青年にふさわしいようにおもわれる。ただもし澤氏の解釈のように異性愛を主題とすると、それが強い非難・誹りの対象となりうるのかは疑問。しかし逆に同性愛が主題だとしても、男同士が二人きりになると誤解されるほど当時のイスラーム社会では同性愛が一般的だったのか、これまた疑問。とすれば、両方の可能性をにらんで曖昧にとらえた蒲生氏の訳の方が適切ではないかとおもわれるが、それを絶対だと断定するだけの能力は私にはない。いずれにしても、物語としては、同性愛についての教訓ととった方がおもしろいのではないだろうか(この物語がイランでどのように読まれてきたかは別として)。
また次の物語も非常に美しいのだが、これまた蒲生氏と澤氏で男女が入れ替わる。まずは蒲生氏の訳。
「想い起すは若かったある日のこと。ある通りにさしかかるや、とある顔を見かけた。その日は暑気が口を焦がし、熱風は骨の髄まで焼くタムーズ月のこととて、人間性の遣瀬なさは正午下りの陽の暑さに堪えかね、一杯の水に暑さを癒す術もがなと、ある塀の陰に憩うたが、図らずも屋内の部屋の闇黒をつんざいて、燦然たる光が輝き渡るを覚えた。すなわち、えも言われぬ美しさ、暗い夜が俄に明けたとでも言うべきか、また暗闇の中からの生命の水にも譬うべきか、美わしの一少年が砂糖を投じ、薔薇の精を混じた氷の水を盛る鉢を手に現われたが、馥郁たるその香は薔薇水でつけられたか、またその花の顔から滴りおちた数滴の雫を混ぜたものか知る由もなかった。つまり私はその果糖水(シャーベット)を美貌の主の手から受けとって呑みほし、蘇生の思いをしたのであった。
私の心の渇きは清き冷水も和らげるに由なく、
海満たす水を呑みほそうとも癒すべき術もない!
朝毎にかような面を見守る
幸福の主こそめでたき窮み!
美酒に酔うものは夜半に覚め、
酌人に迷うものは審判の日に目覚める!」(第五章物語15)
続いて前半の散文部分の澤氏の訳。
「私がまだ若かった頃、ある町を通とき、一人の美人を見たのを覚えている。折から七月のこととて、暑熱のためにのどが渇き、息づまるような暑苦しい疾風で、骨の髄まで煮えたぎるようであった。気の弱いために、私は正午の太陽の熱に耐えられず、誰かが七月の暑熱を私から追い払い、氷水で消してくれるのを期待しながら、私はとある壁の蔭に非難した。すると、突然、家の玄関の暗がりから光が輝き出した。つまり、一人の美人がーーその美しさは、如何なる雄弁な舌も説明できないーーが、丁度、暗い夜が明けるように、あるいはまた、不滅の水が暗がりからわき出るようにして、砂糖と果汁を混ぜた氷水のコップを手にしながら現れたのであった。彼女が、其れをばら水で薫らしたか、あるいはまた彼女の顔の花から数滴したたり落ちたか、私は知らない。間もなく彼女の麗しい手からぶどう酒を取り上げて飲み、生気を取りもどしたのであった(以下省略)。」
これだけでは、少年賛歌なのか女性賛歌なのか判断が難しいが、詩の部分で最後の審判の日に目を覚ますといっているので(澤氏の訳によれば「酒くみ人に酔える者は、最期の審判の日の朝まで目覚めず」)、心を酔わすこの酌人は同性と考えた方がいいのではないだろうか。
実は前々回の内容紹介は、じっくり読むため、意図的に第五章「愛と青春期について」を飛ばしてある。そしてこの第五章こそ、『薔薇園』のみならず、私がスーフィズムについて、社会的背景を含めじっくり考えてみたいとおもったそもそもの原因である。
前置きはこのくらいにして、第五章を開いてみよう。巻頭に記してあるのは次のエピソード。
「人々がハサン・マイマンディーに向かって言った。「マハムード王のもとにはあまた美男の奴隷がいまする。いずれも世に比類なきものどもであるのに、アイヤーズほどに彼らを好みも、愛しようともなされませぬ。格別アイヤーズが彼らにまさって美しいというわけでもないのに!」と。」(以下省略、第五章物語1)
そう、この章は同性愛(少年愛)を中心主題とする章なのだ。周知のように、イスラームでは同性愛は禁忌である。それを正面から取り上げるというのは、やはり社会理念にとらわれないスーフィズムゆえの現象といえるだろうか。しかし同性愛という主題を取り上げるにあたり、サーディーは慎重に、まずマハムード王の事例に言及し、当時のイスラーム社会のなかでは君主をはじめとして同性愛が広く行われており、事実上取り締まることはできないと釘をさす(マハムード王とアイヤーズについては、小ブログ『ハーフィズを読む①ーー同性愛の視点から』<3月15日>参照)。
少し先では次のような問答も紹介される。
「人々が博士に問うて言った。「もし人が月とまごう美貌(の若者)と、衆目を避けて、同席し、戸を閉ざし、友だちが寝こんでしまった時、欲情が起り、色情制するに由なく、アラブ人の言葉のように『棗椰子熟して番人が防げない』時、自制心によって事なきを得ましょうや?」と。答えて曰く、「たとえ美貌の主について事なきを得ようと、到底誹謗者の誹りを免れることはできまい!」と。
(挿詩省略)
人は自分の行ないを制することはできよう、しかし他人の口を封ずることはできぬであろう!」(第五章物語11)
ただし蒲生礼一氏(東洋文庫)が上のように「美貌(の若者)」とやや曖昧に訳しているこの物語の主題を、澤英三氏(岩波文庫)は次のように明確に男女の関係と解して訳しており、どちらが正しいか、にわかには判断できない。
「人々が、ある学者に、「一人の者が、月のような美人と密室に坐し、戸という戸は閉め切られて、見張人たちは皆眠りこけ、情欲は激し、煩悩に征服され、アラビヤ人が、『なしめやしの実は熟し、見張人は制止しない』というような場合、人は禁欲の腕の力によって、無事にそれから逃れ得るだろうか」と尋ねたら、学者はこう答えた。「たとえ、月のような美人たちから完全に逃れ得ても、悪口屋たちの舌から非難されずに逃れられまい。」(以下省略)」
この物語、内容的には同性愛としても異性愛としてもいちおう理解はできるのだが、個人的には「月のような(冷たい)美貌」というのは、青年にふさわしいようにおもわれる。ただもし澤氏の解釈のように異性愛を主題とすると、それが強い非難・誹りの対象となりうるのかは疑問。しかし逆に同性愛が主題だとしても、男同士が二人きりになると誤解されるほど当時のイスラーム社会では同性愛が一般的だったのか、これまた疑問。とすれば、両方の可能性をにらんで曖昧にとらえた蒲生氏の訳の方が適切ではないかとおもわれるが、それを絶対だと断定するだけの能力は私にはない。いずれにしても、物語としては、同性愛についての教訓ととった方がおもしろいのではないだろうか(この物語がイランでどのように読まれてきたかは別として)。
また次の物語も非常に美しいのだが、これまた蒲生氏と澤氏で男女が入れ替わる。まずは蒲生氏の訳。
「想い起すは若かったある日のこと。ある通りにさしかかるや、とある顔を見かけた。その日は暑気が口を焦がし、熱風は骨の髄まで焼くタムーズ月のこととて、人間性の遣瀬なさは正午下りの陽の暑さに堪えかね、一杯の水に暑さを癒す術もがなと、ある塀の陰に憩うたが、図らずも屋内の部屋の闇黒をつんざいて、燦然たる光が輝き渡るを覚えた。すなわち、えも言われぬ美しさ、暗い夜が俄に明けたとでも言うべきか、また暗闇の中からの生命の水にも譬うべきか、美わしの一少年が砂糖を投じ、薔薇の精を混じた氷の水を盛る鉢を手に現われたが、馥郁たるその香は薔薇水でつけられたか、またその花の顔から滴りおちた数滴の雫を混ぜたものか知る由もなかった。つまり私はその果糖水(シャーベット)を美貌の主の手から受けとって呑みほし、蘇生の思いをしたのであった。
私の心の渇きは清き冷水も和らげるに由なく、
海満たす水を呑みほそうとも癒すべき術もない!
朝毎にかような面を見守る
幸福の主こそめでたき窮み!
美酒に酔うものは夜半に覚め、
酌人に迷うものは審判の日に目覚める!」(第五章物語15)
続いて前半の散文部分の澤氏の訳。
「私がまだ若かった頃、ある町を通とき、一人の美人を見たのを覚えている。折から七月のこととて、暑熱のためにのどが渇き、息づまるような暑苦しい疾風で、骨の髄まで煮えたぎるようであった。気の弱いために、私は正午の太陽の熱に耐えられず、誰かが七月の暑熱を私から追い払い、氷水で消してくれるのを期待しながら、私はとある壁の蔭に非難した。すると、突然、家の玄関の暗がりから光が輝き出した。つまり、一人の美人がーーその美しさは、如何なる雄弁な舌も説明できないーーが、丁度、暗い夜が明けるように、あるいはまた、不滅の水が暗がりからわき出るようにして、砂糖と果汁を混ぜた氷水のコップを手にしながら現れたのであった。彼女が、其れをばら水で薫らしたか、あるいはまた彼女の顔の花から数滴したたり落ちたか、私は知らない。間もなく彼女の麗しい手からぶどう酒を取り上げて飲み、生気を取りもどしたのであった(以下省略)。」
これだけでは、少年賛歌なのか女性賛歌なのか判断が難しいが、詩の部分で最後の審判の日に目を覚ますといっているので(澤氏の訳によれば「酒くみ人に酔える者は、最期の審判の日の朝まで目覚めず」)、心を酔わすこの酌人は同性と考えた方がいいのではないだろうか。