みどり市議会議員 宮崎 武

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12月14日

2008年12月14日 | Weblog

やはり今日の内容は12月14日にちなんで【赤穂義士】は日本人の心をつかんでいるのか?について考えたい。

元禄時代は、江戸期の中でも、5代将軍徳川綱吉の時代であり、江戸幕府開闢以来約100年が経過して後の時代では理解できるが265年間続いた江戸時代の中でまだ初期段階でもあり全国的な戦乱の世が集結し約百年。安定と幕府のご威光の強い時代でありました。

特に綱吉将軍は、「赤穂義士と生類哀れみの令」に代表されるように殺生に対して特に過敏な政策を取ってきた方のようで、前身は館林宰相といわれる群馬県館林15万石を統治されていたようで、私達の笠懸野を開拓した「岡上景能」代官も弟は館林藩の代官だったようで、又、岡上公切腹の直接の原因となった?柳沢吉保公の領地も周辺にあったようですが??

ともかく、後の世までこれだけの影響を残している事例も少ないようで、義挙については、幕府に楯突くもののいない時代にたった47人のしかも浪人が行ったという事が武士に不文律の「喧嘩両成敗」を欠いた判断を覆した物であると思っています。

この義挙の後、吉良の後継者であった「吉良義周」「討ち入り三年後病死」は、士道不覚悟という理由?で信州諏訪に流刑のような形で、足利家の名門吉良家はお家断絶!になっています。

ここで、大事な事は、浅野長矩の切腹お家断絶、吉良はお咎めなしは、片手落ちの採決だった事を綱吉自身が認めた!ことにあります。

それだけ、太平の世になれた武士道の中で、主君の為に仇を報じる行為が際立っていた事が分かります。

「松の廊下」の原因は今だ結論が出ていませんが、ともかく当時の武士は喧嘩した場合両方が過失ありと言う判断だったようで。それだけで吉良家は世間から見ると難しい判断のようです。

討ち入った日時は、元禄15年12月14日早朝4時頃とあるようですが、本来は15日早朝のようで現在の新暦に直すと「1月30日」早朝であるようで、苦心惨憺たる1年9ヶ月を過ごした47人は勿論その周りの義挙に参加できなかった方達の労苦が偲ばれますが見事主君の仇を報じた47人は一躍英雄視され翌年2月4日お預けの大名4家で見事武士の栄誉とされる「切腹」をしたという事です。

その後も、数年は、47名「士分46名足軽1名」の後継者には流罪等の過酷な運命はありましたが、徳川6代家宣が、一切の赤穂義士の罪一等を免じ晴れて義士としての面目が保たれ、浅野大学「弟」は旗本に大石内蔵助の三男は浅野本家に1500石で召抱えられる等47人の家族の多くは時代のヒーローの系図として厚遇されたようです。

義士の一人「富森助右衛門」の妹分は6代将軍の側室になったようなお話もありますので次期将軍「家宣」は義挙を容認していたようで?又、大石家と親戚筋の進藤源四郎は「浅野家家臣」親戚筋の近衛家に再就職していたようでこの事も大きな要因でしょうか??「さまざまな憶測はふくらみます」

ともかく306年たった本日もテレビで「赤穂義士」の番組は数件あるようで、日本人は仇討ちを好む傾向や自らの命に代えても成し遂げる!は廃れないようですね!!