みどり市議会議員 宮崎 武

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岡上景能公 322回忌 顕彰祭

2008年12月03日 | Weblog
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本日は、表記の顕彰祭が岡上景能公の命日に当る12月3日毎年開催されます。

ここで、簡単な公の事績をご紹介します。

 岡上景能は1661年(寛文元年)代官(江戸時代の役人)として笠懸町の
鹿の川陣屋に着任!
景能は広々とした野原を眺めながら、なんとか用水路をつくり、この荒れ野を田や畑に変えたいと考えました。毎日のように荒れ野を歩き、自分で地図を作り、渡良瀬川から水を引く計画を作りました。

 いちばん心配されたのは、傾斜が少なく、しかも水が染みこみやすい土地で
あるため、水が良く流れないのではないかということでした。今なら、正確に
土地の高低を計れますが、そのころは、夜ちょうちんの灯りをもとに、水の流
れることを確かめたのです。江戸から調べに来た役人も、計画がよくできてい
るので、驚いたほどでした。

【この間1676年~1684年頃に足尾銅山奉行[この頃は役職が足尾銅山代官に格下げ?になっているか?]も兼任する中、産出量を5倍増としたようです。】

当時の代官職は、御家人から選出され200俵高前後の18家が約10万石以下の天領の支配をしていたようで、「郡代職旗本300~1000石10万石以上支配」と共に勘定奉行の配下として幕府直轄の天領の大事な支配人でした。
どんなに優れていても代官は郡代になれない封建社会の決まりがあったようですね

 計画作りは4~5年ほどかかりました。その後工事に取り掛かり完成は、1
672年(寛文12年)だったようです。用水路はどこを掘っても石がゴロゴ
ロ出てきました。その上、相生町の天王宿から天沼新田にかけては8メートル
も深く掘らなければならない、大変な工事だったのです。

景能は水不足に備えて笠懸町に鹿の川沼を作り、そこに一旦水を引き入れました。そこから、さらにあかがね銅山街道「1649 足尾銅輸送路としてあかがね街道を開設、利根川畔から蔵前まで舟便とする」 に沿って六千石村(薮塚本町)大村(新田町)へと、掘り進めました。

また、三俣分水を作り、竹沢や岩宿などへも水を流しました。この用水の
長さはおよそ15kmにもなります。掘り出した土砂は現在の大型ダンプカー
で2万3千台分にもなる量でした。
「取り入れ口の工事」
 景能は、取り入れ口をどのようにするか考えました。簡単な取り入れ口では
大雨が降り、水かさが増すとすぐ壊されてしまうからです。
 そのため岩を切り取ったり、岩を砕いてトンネルを掘ったりして取り入れ口
にすることにしました。かなづちやたがねを使っておよそ30mも掘り進めま
した。当時の人は、どのようなことを思いながら堅い岩を砕き、トンネルを掘
っていったのでしょう。

「岡登用水の完成」
 景能を中心に大勢の農民が血のにじむような努力をしてやっと用水が完成し
ました。1672年(寛文12年)には、鹿田山のまわりに用水の水を引いて、
初めての田が開かれ、米作りができました。
 「このあたりの農民はどんなにか嬉しかったことでしょうね」
 「農民達は景能に感謝したことでしょうね」

 「景能の死」
 景能は、用水を引くだけではなく、薮塚の大原に新しい村をつくりました。
 しかし、用水が完成した後、下流に住む人たちから余分な水が湧き出したと
か、思ったほどの水が来なかったとか、色々な苦情が出されました。
 また、大きな工事で沢山の年貢を使ってしまった?【ここは諸説あります】
ことを幕府にとがめられました。
そのため、景能は1687年(貞享4年)12月3日切腹して亡くなってしまいま
した。こうして用水もわずか15年ほどで流れなくなってしまいました。

毎年この日には公の事績を紹介しています。本当にかいつまんでの文章になっていますがいかに笠懸にとって偉大な方だったかは分かっていただけたのではないかという事です。