母の七回忌に出会ったあの黄色と黒の尺取虫。鳥にも食べられずにたくましく生きていたんだね。昨日畑からの帰りに車を運転してると首のあたりがムズムズ。触るとムニュ。手の中を見ると「こんにちわ」って。あの虫。これはなんかある。因縁というやつかな。母か母のメッセンジャーかもしれないからと大事に紙で包んで家に持ち帰り庭に放してやった。一寸の虫にも言葉があるんだ。「家に帰りたかったんだよ」って言ってるのかな。そういえばこのところみんなチューブに巻かれて病院で死ぬんだもんな。「家って何だろう」と思うよな。家を出されてデイサービスに集まって来る年寄りたちを見たらテンション下がるね。昔は躾の行き届かない奴を一カ所にまとめて面倒見るのが学校だったけど今じゃそれがデイサービスか。学校には未来があるけどデイには未来はないからな。いつでも「その日限りだ」だからthe day serviceというのが本当だろうな。ウチの母の頃なんかデイサービスに行けなんていうと「子供じゃあるまいしあんなとこへ行けるかね」というのが定番だったけどね。デイに行くのが定番といつからなったんだろう?その後が老人ホームに行ってそのあと病院でお終い。まるで大量生産されて大量消費されて大量廃棄されるシステムみたいだね。それじゃぁ、家にいようかとすると家族から「この人、いつまで生きるんだろう」って思われてそれを察しながら生きるのも辛いよね。一寸の虫にも意気地があるんだと踏ん張ってもボケた頭と動かぬ体じゃどうしようもないなぁ。と思って年寄りを見るからテンション下がるのかな。それにしても・・・だね。人のぬくもりってどこに行ってしまったんでしょうね。
プルーテルが亡くなって13年。67か68で死んだから生きていれば80か。仕事仲間でともにいい時代を過ごしたから忘れることはない。が、何かしてあげてないことがあるとずっと気になっていた。不思議なもんで家を片付けていたら「ここだよ」という感じで古い写真が出てきた。仕事で取材にいった山村で当時のスタッフと撮った写真だ。みんな若い。みんなラフな格好なのにテルちゃんだけスーツ。テルちゃんは何処へ行ってもスーツだったねと懐かしく思い起こしていたらそうだテルちゃんを描いて奥さんに持って行ってあげようと思った。それが一番奥さんが喜ぶだろうからと勝手に決めて油絵具を絞り出した。テルちゃんは水彩よりも油だよなとこれも勝手に決めて下書き無視で気の向くままにテルちゃんの顔を描いた。油絵って乾くまでに何日かかかるのよね。下塗りに3日かかってしまったから上塗りと仕上げは速乾性オイルでちょっと荒っぽくやった。まぁとぼけた顔。テルちゃんは元々とぼけた顔なんだ。と絵を持って額縁屋さんに。油絵の額縁って高いのよね。それに頑丈で重い。「極シンプルなのでいいから」と注文して額に入れてもらう。それを持ってテクテクと歩いてテルちゃんちへ。あれ、ここら辺だったのになと家が分からない。周りに家が建ったせいか年取ったせいか辺りをクルクル。丁度出くわせたおばさんに尋ねるとそこの角を左に行って突き当りと教えてくれた。ピンポーンと鳴らすとドアが開いて玉手箱をひっくり返したようなオバぁが出てきた。13年だもんな年取るはずだよ。髪の毛が真っ白でさ。最初は戸惑った。ようやく話がかみ合って珈琲をごちそうになりながら昔話に花を咲かせた。昨日ゴルフに行ってたとかで元気元気だった。オレの絵を早速仏前に飾って「うれしい」と言ってくれた。「テルちゃんは何処に行ってるか分からんけんど一応線香あげとこう」というと大笑い。帰りは僕の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。人の付き合いってなんか面白いね。目に見えないものが突き動かすんだから良い方にさ。少なくとも僕の周りにいる人はみんな幸せにと思うばかりだ。
昨日は油絵を描いていて途中で二階に上がると二階にまでシンナーの匂いが上がってきてた。油絵を描いてる奴が油絵をやめない理由はコレかと勘ぐってしまうほどのシンナーの匂いだね。乾かないと次が描けないというのが欠点で僕にとっては水彩ほど難しくない。どんどんどんどん気に入らなければ直していけるからね。ただ知らないうちにインクがズボンとか床とかについてしまうんだなこれが。だから大抵僕のズボンにはどこかにインクが付いている。ペンキ屋さんほどではないけど。昨日のビッグニュースといえば川内君のボストンマラソンの優勝だね。アメリカの新聞も大きく取り上げていた。Desiree Linden and Yuki Kawauti pull off upsets in rainny Boston Marathon.ってね。大雨と寒さでコンディションは最悪だったのに「僕にとっては最高のコンディション」だと言ったのも記事になってたね。紛れもなく世界のトップランナーの仲間入りだね。「好きこそものの上手なり」のお手本のようですね。あれがないと出来ねーとかこれがないと出来ねーとかいってるアスリートには耳が痛いですね。でも彼は彼のやり方だから自分は自分のやり方でいいんじゃないかな。女子の優勝者のディスリーリンデンとの共同勝利者会見でディスリーが質問に答えて冗談交じりに言ったら周りがどっと笑うシーンがありましたけど普通なら英語が分かろうが分かるまいがお愛想笑いをするんでしょうが英語は分かりませんからと真面目な顔で座っているのが微笑ましかったです。「この人、正直な人だなぁ」って。こんな日本人が世界に紹介されるって誇らしいことだね。変に西洋ズレしてチャラい日本人とも何人とも言えないヤカラが闊歩する中でね。この人のおかげでこれからのマラソン面白くなってきそうだね。「俺にもできる」って若者がでてきそうだから。
英語を話すのにもう勉強する必要はないんだってね。スピードラーニングよりすごいノーラーニングの時代があと2~3年でくるって。AIが進んでスマホで同時通訳となるらしい。今まで苦労して英語に取り組んだ人の努力は一体何だったんでしょうね。こうなることは十分予測できたのに英語の本質は避けて会話主体の発展途上国に教えるような英語教育に取り込ませようとした文科省の押し付けは何だったのでしょう。将来国の代表がスマホ片手に会談するってことも実現するよ。そうなれば通訳がいらないから秘密はより守られるね。まぁ、ハッキングってこともあるから完璧じゃないけど。これが将来英語だけじゃなくすべての言語に適用されるだろうから今、中国人がスーパーでベチャベチャ言ってるのも聞き取れるってことだ。これが言語のグローバル化だ。翻訳アプリを持ってる人と持ってない人に分かれて知識の差って広がっていくのかなそれと同時にヒラメキのない人ってAIにとってかわられるってことか。勝つためのメソッドなんか一生懸命詰め込んでシステマチックに一つ一つものにしてという日本的に頭がいいと言われた人たちなんか役に立たない時代がすぐ来るということだ。彼らの一番の敵は「ノーラーニング」だからね。勉強するなといわれたら途方に暮れるだろうから。この完全アプリは東京オリンピックまでに完成させるというから東京オリンピック前後で価値観の大転換が起きるんじゃないかな。これは世界の潮流だから日本の政府がとか日本の企業がとかの枠を超えているんだろうな。それでもオリンピックを控えてる日本が主体となって世界と共同開発していくんだろうけど。いよいよ見たこともない未来の出現が間近だね。いかにして自国の文化を守り切るかってことが浮き彫りにもなってきたね。AIは敵か味方かってとこだね。
レオナールフジタが再評価されているらしいね。イギリスでの話だけど。あれっ?フランスだったっけ。当時というと1920年代かなピカソも絶賛してたというじゃない。モジリアーニと親友だったってね。知ってる有名画家の名前がポンポンとでてくるのも当時なんだからかな。こうやって再評価でフジタの名前と絵が若い層に広がっていくっていうのは日本人としてうれしい限りだね。「絵は永遠です」なんて言ってね。Le'onard Foujitaという綴りをみてたらレオナルドダヴィンチを思い浮かべてLeonardo da Vinciと書くとビンチ家のレオナルドというんだって。いままで全部が名前だと思っていたから目からウロコだね。レオナルドダヴィンチって聞くと偉大と思うけどヴィンチ家のレオナルドとなるとなんかそこら辺のガキんちょみたいに思えるから不思議。イメージって大きいよね。大きく言えば絵もイメージだからね。イメージはメッセージにもなるから一つの色が伝えるインパクトは大きいんだ。一色一色を置いていく日本画の技法も日本人の洋画ももっともっと再評価されてもいいんじゃないかな。久しぶりに日本人がイギリスの新聞に出てそれがフジタだったもんだからナンカうれしかったね。これからも海外で評価される若者がドンドンでてきて欲しいね。いや、爺さんばぁさんでもオジンオバンでもいいから出てきてもらいたいね。再評価っていうと前に評価されたということだからオレには再評価はないのか…残念。でもフランス行けば評価されるんだぞバカヤロー…とブツブツ。
いよいよ24日から自分たちの水彩画展がスタートするので絵画教室ではその準備に忙しくしています。今年は水彩画展を始めてから20年ということで亡くなってもう25年位になるんだろうか先生の絵を30点くらい飾るとのこと。先生の絵はほとんど売れて現物はないんだけど印刷したハガキがあるということでそれを額に入れていく作業をした。初めてみる絵。印刷だから色は濃く出ているが上手いんだな絵が。「レベルが違う」とオクちゃん。「上手い」と絶句のヒロちゃん。みんなで感嘆。絵は人なりというけれど優しさ、覚悟、潔さがすべて出てる。「どうしたらこんな上手い絵が描けるんだろう」と素朴に思う。絵は心と心をつなぐ媒体と生前に言ってたらしいけど心を込めて描いていたのがよく分かる。「徹底的に遊ばんとこんな絵は描けんで」と先生の娘が言う。破天荒だったらしいからなとボソボソ。絵も真似できんし、遊びも真似できん。やはり自分の絵をコツコツと描いていく以外はないのだとみんな納得。それにしてもこの絵は上手い。こんな絵を30点、一面に飾ると圧巻だろうね。といまからワクワク。まぁ、俺の絵には及ばないけど と いつか言える日がくるといいね。弟子は師を超えていかねばならないのだから。と叱咤激励。
何の幼虫なんだろうね。芋虫、青虫、尺取虫くらいは分かるんだが尺取虫のような動きで前に進み青虫くらいの大きさで派手な黄色い体に黒の班点。蛾の幼虫なのかな。黄色と黒は「危険」の印なのかな。見ていたら器用に小枝に登って登りきると思いっきり体を伸ばして次の枝に移る。虫にとっては当たり前のことなのだろうが見てる方は感心してしまう。「おい、隠れとけよ。鳥に狙われるぞ」って声かけてやるとどこぞへ消えて行ってしまった。次の日、畑仕事を終えて小屋の縁側に座っていると縁側をよいしょよいしょとやって来るあの虫を見つけた。ここは気づかずに座ったら潰されるよと行き先を変えてやろうと小枝をかまえたが頑として譲らず真っ直ぐ尺とって小屋の隅まで進んでいった。あの黄色と黒の派手な色で。それでも会いに来てくれたのかと感激。普段はそんなに思わないけどこの日はなんか虫との再会がうれしかった。そういえば母の七回忌が今日だったね。ひょうきんな母だったから派手な虫になって会いに来たのかな。「変身」といって大きな蝶になれとでも言うように。母のことは毎日のように思い出しては笑っているから亡くなった事実はあるけどそんなに死んだ実感はない。そんだけ強烈に天然で面白いヤツだったから虫にでもなんにでもなって帰って来るだろうからあの虫が母だったとしても不思議じゃない。「じゃーん」なんてね。「もうちょっとで蝶になるから」なんて言いながらね。たかが虫、されど虫・・・か。
宇佐美百合子さんの詩に「おやすみなさい」というのがある。
失ってから「ありがたかった」と気づくんじゃ遅すぎるモノ
自由に動く体、心配してくれる家族、安心して眠れる部屋
まだまだたくさんあるよ「あるのが当たり前」と思ってたらもったいないモノ
太陽のぬくもり、青空の美しさ、山の緑、花の香
それを感じられないとき、シアワセが足りないって思う
今夜は一つ一つに感謝をささげて、やすらかな気持ちで、おやすみなさい・・・・
失ってからとか当たり前と思ってるものとか気づくのが遅すぎるモノもったいないモノを見過ごしてるとウガンダの国立公園でライオン11頭が死んでるのが見つかったって事件。それが毒殺だったという人間様の仕業であるのが腹立たしく思ってるとこの詩に出会った。太陽のぬくもりと青空の美しさと森の緑と花の香に包まれた自然豊かなアフリカで人は何故シアワセが足りないと思うのだろう。調査はすすんでないらしいがライオンを殺すことはなかったんじゃないかな。あの滋賀県の19歳の巡査もナニモ殺すことはなかったんじゃないかな。みんな幸せが足りないのか。足るを知るからシアワセなのにね。
涼しそうな藤の花が咲いた。山の畑で。道具小屋の傍にある山アジサイの上で。見上げないとわからないけど緑の中の青と白は爽やかだ。日本髪で揺れる「かんざし」のようだ。あの美しさ、あの文化はどこへ行ったんでしょうね。捨ててしまうのは簡単だけど作り上げるのにどれだけの時間がかかったのでしょうか。捨てた途端に人は変わるのでしょうか。ただ捨てた記憶が蓄積されるだけ。選択の目先が変わっただけ。小屋の縁側に座って美しかった日本文化を思う。あの江戸の町民文化は維新を経て明治には日本の民主主義として五か条の御誓文で花開く。それをどこぞのバカが民主主義はアメリカに教えてもらったなんて間違ったことをアメリカ議会でいうからこの国は軸を失った。もう一度日本人が持っていたものを見直す時じゃないのかな今は。働くことは生きること生きることは働くことこれでいいじゃないかな。働くことに美を見出すのが日本人だからね。日本人は労働じゃなくハタラクなんだ「傍が楽」そうやって人の為に生きてきたんだからね。と座っているとふよふよと周りを飛ぶ虫がいる。何だと見ると蚊だ。蚊が飛び出したんだ。まだ人を刺すまでは丈夫にできてないがこれから刺しだすと思うと優鬱だね。いよいよ虫の季節か。蚊、ダニ、ムカデ、蜂とここは虫の宝庫だからね。これも生命の宝庫と思えば豊かな自然に囲まれているということか。日本人は自然と共に生きてきたんだから。
去年は咲いてなかったのに雪餅草の横でクレマチスが咲いていた。しかも満開。今年は花が咲き急ぐ。そういえばモッコウバラもすでに咲いていたり1ヶ月くらい早い気がする。早く咲けば早く枯れる。花も人も同じか。まぁ花それぞれ、人それぞれだからしかたがないか。と花の写真を撮る。紫、オペラピンク、白、黄色、緑、茶色、灰色と色がいっぱい。その色に囲まれた自然を僕らは一瞬のうちに見て何気なくやり過ごしている。たくさんの色があるんだなという意識はない。ピンクのきれいな花というくらいの認識かな。それで特に日常は問題はない。そうなんだ普段は多くの色の氾濫の中で暮らしているんだ格別意識したことはないけどね。と思うと日常って不思議。自分の好みの色だけ選択して暮らしているのかなとふと思った。じゃぁ、絵の中と変わらない。自分の好みの色で染め上げた自分の絵の中で人は暮らしているのかと発見。油絵の人もいるし水彩画の人もいる。そうなのか全ては絵なのかと自分の発見に驚きつつも納得する。じゃぁ人は筆かな水かな絵の具かな?それはまだ分からないが平面でとらえたら人生は絵だ。。花だ。と思考していたら猫が起きだしてきて膝の上に乗る。新しい色が加わった。そして暮らしの中に溶け込んでいく。