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パトリス・ルコントのドゴラ

2006年10月22日 03時33分31秒 | 映画雑感
 映像とは、そこに現実にある情景、音、におい、気温、湿度などといったさまざまな情報の中から、画角に収まるある一定の光の情報だけを切り取るものだ。映像を見ることとは、そこに映された映像の中からわれわれが理解しうる情報だけを取り出してみることである。さらに映画を語るということは、さらに自分の記憶にある映像体験から、わずかな情報を語ることに過ぎない。
 情報量に対して、映像は現実に敗北し、観客は映像に敗北し、彼らが語る言葉たちは記憶に敗北する。幾重にも敗北が運命付けられた営みが、映画を見る、ということだ。
 私たちは、映画を見てよかったかどうかを判断するときに、偶然画面の中央付近に映し出されていることが多い人物の行動を自分の経験に照らし合わせて、どの程度共感可能かというただ一点の評価をしてしまう。それによって、映画を見た、映画を語ったと思うのは、途方もない思い上がりでしかない。映画の質いかんに関わらず、映画を語る言葉は映画に敗北することを運命付けられている。
 同様の思い上がりを、現実に対して映像作家が行ってしまうこともあるだろう。フランスの劇映画作家としてはコンスタントに新作をリリースして、それなりの評価を得ている映画監督が、ストーリーのないドキュメンタリー映画を作ったというので見に出かけた。しかもその舞台は去年訪れて感銘を得たカンボジアだという。

 フランスのエティエンヌ・ペルションという音楽家の『DOGORA』なる、きわめて下品な音楽に痛く感動したパトリス・ルコントと呼ばれるその監督は、この音楽にもっとも似つかわしくない、元植民地の風景を重ね合わせていく。
 あのカンボジアののんびりとした、しかしジワジワと真面目な、熱い、湿度の高い風景はどこにも現れない。いや、それは映像には写し撮られているのかもしれないが、勝者の宣言としてのDOGORAという音楽が重ねられているために、感じ取ることも不可能だ。カンボジアにはカンボジアの風景があり、音があり、言葉があり、においがある。そうした一切の繊細なシンフォニーに耳を傾けることなく、下品な音楽に勝利宣言を与える。そうした暴挙がこの映画である。

 ルコントがDOGORAに感動しようが構わない。だが、現実のカンボジアに音楽が勝利すると思い込んだ凡庸な感受性。そこには、たとえば大木裕之が世界の音たちに異常なほどの動物的敏感さをもってフィルムの編集にあたる繊細さがないばかりか、ストコフスキーの軽妙な指揮棒の下に演じられる曲に、自らが生み出したキャラクターたちを協奏させていった真の音楽映画たる『ファンタジア』のような大胆不敵さもない。
 あるのは、自分が勝利しえたと思い込める単純な図太さばかりなのだ。それは、あたかも政府観光局が製作したかのような、プノンペンの雑踏、トンレサップ湖の水上生活者たち、アンコールワットの前の池で水浴びをする子どもたち、片鼻を垂らした子どもたち、ごみ拾いでなんとか生計を立てようとする人々、工場で海外向けの衣料を作る女工たちといったカンボジア像の「公式見解」しか語られない映像にも表れるだろう。
 だが、批判的な言辞を連ねてきた後で、私はそこに映しこまれているカンボジアの現実の投影に敗北をするほかない。

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