新装開店☆玉野シンジケート!

セクシュアリティ・科学・社会・映画

『ショートバス』やらなんやら

2007年09月14日 06時01分28秒 | 日記
 ひさびさに普通に日記です。
 
 安倍首相があまりに唐突に辞意を表明し永田町は大変なことになっていますね。
 ここにきて安倍首相に同情を表明する人も多くなっているようです。たしかに、政治家なら誰でもやっているようなお金の問題を微に入り細に穿って掘り起こしては、ひたすらたたきまくるメディアの姿勢はあまりにも行き過ぎている感じもします。そんなこんなもあって、ついに倒れてしまったというところはあるのでしょう。
 首相という地位のプレッシャーは本当に厳しいですから、そりゃあ心臓には剛毛が生えていなければならないのでしょう。それをメディアがますますつつくわけだから、昨今要職につくのはますます生半可ではいかないのも事実。その意味で「胆力」なるものが足りなかったというのは、そんな気もしますね。

 政策的には「憲法改正」「教育基本法改正」のような理念法の改正ばかりに目がいって、国民が抱えている生きづらさには無頓着だったような気がします。安倍首相は、ひょっとすると人間の弱さに、いまやっと気付いたかもしれません。

 さて、今日は『ショートバス』という映画を見てきました。
 人は有性生殖をするので、その相手を探そうとする運命を背負っています。「相手を求める」ときに、同性を選んじゃうことはあっても、「相手を求める」ことには変わりない。
 その性を描こうとする、『ヘドウィッグ&アングリーインチ』のジョン・キャメロン・ミッチェル監督の映画です。

 群像劇なので、1人の主人公に絞るのは難しいのですが、ゲイのキャラクターが主人公的な役回りを演じるというのも見所ではありますが、それよりもハッテン場文化をもとに性愛関係が描かれるのが新鮮でした。
 『ショートバス』というサロンでは毎夜大勢の人が集まり自由にセックスや舞台を楽しんでいます。
 自由にセックスができてしまう環境に触発された人たちが、一瞬、そこにバラ色の世界を見るものの、すぐに苦悩が垂れ下がってきてしまうというのは、ぼくたちゲイはだれでも通ってきたところですよね。セックスができたからといってそれだけで満足できるわけではない。
 セックスは自分が受容される経験ですから、とくに自我が確立しきらない若者にとっては、自分が受け入れられる経験ができるきっかけになります。しかし、その受容が単に「その場でやる」というだけであれば、空しさへとすぐに変わってしまいます。
 この映画では、それをさらに補完する役割をサロン=ハッテン場に持たせるわけですが、ここはちょっと微妙かな。もちろんショートバスという場での諍いも描かれもするのですが、5年付き合って倦怠気味なゲイカップルも、自分がオーガズムに至ったこともないセックス・セラピストも、キュートな恋人が欲しいけどできないSMの女王様も、ショートバスの女主人が歌う歌で救われて行く過程をあと30分かけて描いて欲しかったという気もしないでもない。性の持つ魔力のさまざまな側面を見てきてしまっていると、「そんなに甘くない」とついつい言い出してしまいそうになります。ぼくは、引きこもりからハッテン場を足がかりに<世界>ともう一度関わろうとしたけれど、結局、自死を選んだ若者を思い出しています。そして、彼を救う言葉の一つもはけなかった自分の無力を思います。
 映画では最後のご都合主義でラブ&ピースな雰囲気はアメリカの反戦につき物の感受性と割り切ればいいのかもしれません。

 いずれにしろ、自分がどこか普通じゃないと感じてしまう人、なぜか合理的な判断ができないでいる人、つまりショートバスにいつかは行き着いてしまいそうな人はどこかで心に染み渡ってくる映画ではあります。
 あまりにナイーブであるがゆえに、繊細に輝く。
 この多くのナイーブなメンタリティが交錯する映画にはどこにも骨太な<芯>など通っていません。しかし、人間の弱さと、弱いがゆえにこそ過激なセックスに希望を見出そうとするギリギリの選択が、たとえそれが周囲の<まともな>人間からは不合理な選択と映ろうとも、本人にとっては極めて切実なものであることが垣間見えてきます。
 ジョン・キャメロン・ミッチェル監督は、前作『ヘドウィッグ アンド アングリーインチ』で、骨太に自分の運命を生き抜く人物を描き出しましたが、今度はガラスの糸で織物を織り上げるような繊細な人びとが折り重なって生きていく姿を描き出し弱さを肯定しました。
 格差が広がり、競争が激化する社会で、弱者がないがしろにされ、弱いがゆえにつまづいているのに、一旦つまづくとますます強さを要求する現状に対する、静かな静かなレジスタンスなのかもしれません。

 

 

 

 
 

最新の画像もっと見る