原題:『見栄を張る』
監督:藤村明世
脚本:藤村明世
撮影:長田勇市
出演:久保陽香/岡田篤哉/似島美貴/辰寿広美/真弓/齋藤雅弘/時光陸
2016年/日本
(SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016 SKIPシティアワード)
「成長」する泣き方について
主人公の吉岡絵梨子は女優になるために10年前に上京してきたものの、ビールのCM以外に目立った活動がなく、オーディションの際にも泣きの演技に監督からダメ出しを受ける始末である。そんな時に姉の由紀子が亡くなり、地元の和歌山の実家に戻って来る。そこでしばらくの間、シングルマザーの姉の息子である10歳になる和馬と暮しながら、姉が勤めていた葬儀会社の「泣き屋」を姉の代わりに社長の佐久間花恵の下ですることになる。
しかし演技でさえ泣けない絵梨子は、他の「泣き屋」の女性たちの泣き方に却って反感を抱くようになり、ますます泣けないでいるのだが、そんな時、全く身寄りがない三島節子が自分の葬儀に泣いて欲しいと花恵の会社に訪ねてくる。和馬も連れてきた3人だけの節子の葬儀で絵梨子はようやく泣くことができて、その後和馬は実の父親である阿部圭介に引き取られることになり、東京に向かう電車の中で絵梨子は号泣するのである。
一見良い話のように見える。実際に良い作品でストーリーの流れのスムーズさやカット割りなどそつが無いのであるが、肝心の「泣き」には疑問を禁じ得ない。例えば、絵梨子は「泣き」の演技ができなかったために事務所を解雇されたはずであるが、「泣き屋」たちの泣き方には同調できない。だから花恵のアドバイスを受けて周囲の参列者たちの泣きを誘うような泣き方を試み、節子の葬儀で自然に泣けたのである。それでは電車の中の絵梨子の「泣き」を私たちはどのように解釈すればいいのだろうか。演技でもなく、「泣き屋」の泣き方でもない「本気」の泣きをどのように受け止めればいいのだろうか。監督は絵梨子の「成長物語」と説明していたが、「成長物語」にするためには説明不足で、「これは映画である」というメタフィクショナルな解釈でもしない限り、あくまでも演技ではなく本気で泣いている絵梨子を待っているものは成長ではなく挫折だとしか思えないのである。それとも監督が「見栄を張」ったということで、絵梨子の「本気」の泣きで本作の観客の涙を誘っているというのであるならば、傑作という言葉以外に思いつかない。長編コンペティション部門にノミネートされた12作品を全て観たが、日本人が初めて最優秀作品賞を獲る可能性は大いにあると思う。藤村明世監督は今年まだ26歳らしいのだが、大物になる予感しかしない。