ケンのブログ

日々の雑感や日記

本人の好きなように

2021年10月17日 | 読書
芹沢光治良の「人間の運命」という小説で、主人公の次郎はフランス留学中に結核になり、スイスのローザンで療養生活をする。

その、次郎の療養生活のころを後年に振り返るシーンで次のような記述がある。

“”(ローザンの)高原では、闘病よりも死が易かった。雪のアルプスが自分を抱きかかえてくれそうで、誰も死を思うらしかった。死の誘惑と戦うために、次郎は初めて福音書を読むことを知った。

黒い皮表紙の大型のフランス語の新約聖書だった。大切な単語にはカッコをして、ギリシャ語が入れてあった。例えば愛の字には(アガペエ)と言うように・・・・

同じ病友に、スコットランド人で若い古典学者のヤング君がおって、ギリシャ語の説明を、雪路の散歩をしながらよくしてくれた。

若いのに赤毛の羊ひげをしていたヤング君から、次郎は福音書の愛について初めて教えられた。愛(アガペエ)とは、それまで考えていたのとはちがって、本人の好きなようにしてやることであった。

右の頬を打たれたら、左の頬も打ってもらうようなことであった。“”と。

※新約聖書は古典ギリシャ語で書かれているので、フランスには愛などのキーワードに原典であるギリシャ語は何かを括弧で示した聖書があるものと小説の記述から判断できる。

アガペエを辞書で引いたり、哲学用語辞典で調べたりしても大概は抽象的な記述があるばかりで、具体的なイメージがつかみにくい。

芹沢光治良の小説におけるこのアガペエの説明、

つまりアガペエとは、本人の好きなようにしてやること、右の頬を打たれたら左の頬も打ってもらうようなこと という説明は、アガペエの具体的な説明として、比類がないほどわかりやすいと感じる。

小説のなかの記述とは言うものの、作者の芹沢光治良さんはこういうことはきっちりと書くタイプの人であることはわかるし、、、。

ちなみに、「右の頬を打たれたら左の頬も打ってもらうようなこと」、と芹沢光治良さんが書いているのは、相手が自分の頬を打とうとするならそれさえも相手の好きなようにしてやることという意味で書いておられることはほぼ自明だ。

本人の好きなようにしてやること これが愛の本質、というのはまったくそのとおりなのだと思う。

右の頬を打たれたら左の頬も打ってもらうのは限りなく困難なように、本人の好きなようにしてやることもまだ困難なことであるけれど、、、。

しかし、本人の好きなようにしてやることが愛の理想形 と心のなかに抱いていることは大切と思う。

理想を実現するのは困難でも、理想を心に持っているのと持っていないのでは行動が違ってくると僕は考えるからだ。

それはともかく、いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。




花火

2021年10月16日 | 日記
僕が今いる田舎の町は刃物産業の町だ。

例えばコンビニに置いてある爪切りなどは貝印株式会社という会社のものである場合が多い。

この会社、今はたぶん東京に本社があるけれど、もともとは僕の町でできた会社だ。

そんな関係で秋に僕の町では刃物まつりというまつりがある。

今日はコロナの中、何年かぶりに刃物まつりがあったらしい。

町に結構、人が繰り出していた。

自動車も町中は渋滞していた。

といっても町そのものが小さいので渋滞と言ってもたかだか知れているけれど。

僕は人混みがあまり好きでなく、大阪に何十年と暮らしていても淀川花火には一度も行ったことがない。

浴衣を着ている人を電車で見て ああ今日は花火だなあと思っていたけれど。

刃物まつりも自分自身は行かなかった。

地元の刃物を売る常設のお店があるので特にお祭りで刃物を買う必要も感じないし。

しかし、午後6時少し前に自動車で信号待ちをしていたら、川の方向からたぶんサプライズで花火があがるのが見えた。

あれはいいものだなと思う。

コロナもだんだん下火になればいいのだけれど。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。

10月も半ばになって

2021年10月15日 | 日記
一日の気温の較差がかなりあるように思う。

朝はかなり冷えるのに、日中は30度位になる、そして夜も意外と蒸し暑いという感じで、、、。

あくまで僕自身の体感だけれど、、、。

もう少し気温の較差が少ないといいと思うのだけれど、こればかりは、、、。

夏目漱石の草枕の冒頭付近に次のような文章がある。

“”
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。“”と。

本当に、システム化されて面倒な世の中だなあと思うとき、こんな夏目漱石の文章は心にしみる。

人の世が住みにくいからと言って 人がいない国へ行ったら孤独に耐えられないだろうし、、、。

第一、一人でロビンソン・クルーソーのように生活が成り立つかどうかさえわからない。

かつて、征さんという方の本を読んでいたら

人はみなあるがままに完全である。
どうぞなるようになりますように。

という文章が書いてあった。

一見、不完全に見える人間が、それでもあるがままに完全である、と信じて、そして、なるようになると信じていけたらいいと思う。

そう願っている。

・・・・・・・・・・・・・・

岐阜の地方紙の県内総合欄に郷ひろみさんのコンサートがあったと出ている。

郷ひろみさんのコンサートの広告が出るのではなく、コンサートがあったことが記事になるというのは田舎だなあとしみじみと思ってしまう。

ひろみさんの写真を見ると、姿勢はいいし お腹も出ていない。

この歳までコンサートができるのは精進された結果とは思う。

広告と言って思い出したけれど、最近、アデランスの新聞広告のモデルが郷ひろみさんそっくりだなと思うことがある。

ちょっと疑問に思って、ネットでそのことを検索してみたら、確証をもって書かれたサイトは少なくとも検索上位にはなかった。

たぶん、モデルは郷ひろみさん以外の方らしいけれど。

でも、郷ひろみさんを思わせるように狙っているのは間違いないような気がする。

郷ひろみさんのデビュー曲 男の子女の子の歌詞に

“”幸せ探すのは まかせてほしいのさ“”というフレーズがある。

夢のある歌詞だなと思って調べてみたら作詞は岩谷時子さんだった。

時子さんって、宝塚にも関係していた人だから、こういう夢のある詞を書くのが得意なのかなとふと思う。

もちろん時子さんの人柄、才能によるところが大きいのだけれど、、、。

それは、ともかく、いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。

イナゴぞなもし

2021年10月14日 | 日記
今日の岐阜の地方紙のコラムで昆虫食のことが話題になっている。

かつて日本は特に内陸部を中心に昆虫食大国だったけれど、様々な理由から衰退した。それがここにきて世界的な人口増による食糧難から再び昆虫食が注目されていることにコラムは触れている。

岐阜県選出の野田聖子衆議院議員は自民党総裁選の討論会で小学生から昆虫食について質問され「おばちゃんは、昔から虫を食べています。しょうゆと砂糖で煮て食べると、まあまあおいしいです」と答えられたという。

そんなことを紹介するコラムは次のような言葉で結ばれている。

「5年後には、昆虫食の世界市場規模が数千億円に達する見込み。当たり前に昆虫を食べるようになる日も近いかもしれないが、せめて姿をとどめない形での販売をお願いしたい」と。

この文章の結びを読んだとき、筆者は①若い世代の人 ②虫の苦手な(たぶん)女性 ③特に虫の苦手な人ではないが、若い人あるいは虫の苦手な人に配慮してぶりっ子してこのように文章を結んでいる。

のいずれかではないかと想像した。(個人の想像です)

そして、「姿をとどめない形で昆虫食を」という主旨の文章の結び方をするのは残念なことだなあと思った。

僕も子供のころ、イナゴの佃煮をよく食べた。野田聖子さんが言っておられるように、しょうゆと砂糖でイナゴを煮ると、川魚のモロコやあゆの稚魚などの佃煮とほとんど同系統の味がする。と記憶している。

というかイナゴのほうが魚よりパリパリ感があって、臭みもなく、おいしいと感じる人もきっといることと思う。

ただ、イナゴの足はすごい筋肉で結構硬いので、時々のどにひっかかるというよりも、舌や口の内側の皮膚にチクっとした感触を与えることがあるけれど、、、。

あと思い出すのが蜂の子ご飯。

見た感じは、味付けの炊き込みご飯の中に黄色いウジ虫がいっぱいいる感覚だ。これもなかなかこたえられない味で、たまに食べるとおいしかった。

モロコの姿煮なども、形に慣れていればみんな違和感なく食べるのと同じことで、イナゴの佃煮も、蜂の子ご飯も慣れれば、そして、おいしいという感覚がわかれば、おいしい魚の佃煮を見ると食欲が出るのと同じことで、食べたいという気持ちが湧いてくることと思う。

昆虫食は姿をとどめない形での販売を という文章の結びはやはり残念だなと思う。

もとの姿をとどめないものばかり食べていると、食に対する意識が低くなってしまうように思う。

そして、それは、人間の生存のためにきっと良くないことのような気がする。

食べることは生きるために必須の条件だから、、、。

そういえば、布団の中に学生にイナゴを入れられて、「布団の中にバッタを入れるとは何事か」と学生に詰めよると「それはバッタではない、イナゴぞなもし」と逆に学生にやりこめられたのは夏目漱石の坊っちゃんの主人公だったっけ。懐かしいなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。








出物腫れ物所嫌わず

2021年10月13日 | 日記
国道沿いのカレーショップへ。

僕、ちょっと変わった体質で、カレーを食べると特に2辛とか3辛などにしなくても普通の辛さで、顔から汗、涙、鼻水、全部出てきてしまう。

鼻水はきっと、カレーを食べると鼻の粘膜の血行がよくなって出るのだと思う。

京都のあるカレーショップでは、アルバイトの女の子が僕のそんな様を見て、会計のときに、このおじさんおかしい という感じでいつもにこにこしてくださった。

一度も話はしたことないけど、あの子懐かしいなと思ったりして、、、。

今日もカレーを食べて鼻水が出てきてそれをズリッとすすったら、となりのおじさんが席を移動した。

都会にいると、電車で咳をすると近くの人がさっと席を移動するということはよく経験する。(コロナになってからの話)

もちろん外食のお店でも。

でも、都会の場合ホワイトカラーの人というかサラリーマン風の人が多いけれど、国道沿いのカレーショップはトラックの運転手風の人が多い。

そういう運転手風の人が席を移動すると、サラリーマン風の人が席を移動したときとはまた一味違ったすごみがあって、よりいっそう怖い気がする。

まあ、目を合わせないように注意していた。

やっぱりトラブルになる可能性は少しでも低いほうがいいいので、、、。

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池袋で交通事故を起こしてしまった、90歳のおじさんが拘置所に収容されるという記事が新聞に出ている。

それを受けた被害者の方の言葉として新聞には次のように書いてある。

“”
元被告の男性が過失を認めたことに「最初からこの言葉があればとどうしても思ってしまう」と明かし「真の意味で償える日が来るかどうかは彼次第だと思う」とした“”と。

確かにそのとおりと思うけれど、90歳と統計的な数値では、余命の短い年令になって、拘置所での生活となり、また、自分の孫ほどの年令の被害者の方に 真の意味で償える日が来るかどうかは彼次第 と突き放して言われなければならないのもそれはそれでつらい話だなと思ってしまう。

もちろん、交通事故で家族を二人も失うのはもっとつらい話だけれど、、、。

僕の考え方の癖なのだろうけれど、こういうことがあると、イエスの主の祈りに書いてある

「私達が私達の罪を許しましたように 私達の罪をもお許しください」という捉え方が、結局は最大多数の人が、最大限、安らかな心でいられる叡智なのでないかと思ってしまう。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。