ケンのブログ

日々の雑感や日記

本音が大切

2024年10月24日 | 日記
僕の実家は、小さい神社を営んでいる。

小さいけれど毎朝、数人の人がお参りに来てくださって、朝のお勤めをしている。

そのお勤めの後に、母がちょっとした小話をすることがある。

その母の小話の中に、人間には本音と建前がある、また本音があっても言うと差しさわりがあるから波風を立てないために、何も言わずに流れに合わせていくことも人生の中には多々ある。

そんな話があった。

そして、母は、このように話をつづけた。

人は建前ではいいことを言うことが慣例だし、また本音では嫌だと思っていても波風立てないために無言で流れに従っていくこともある。

しかし、人間が罪を作ったりまた人に暖かい印象を与えたりするのは、建前や不本意な沈黙の部分ではなく むしろ 本音の部分にある。

人は本音の部分で罪を作ったり 暖かいものを残して行ったりする。

そういうものだと。

その話を聴いて 僕はこのように思った。

本音と言うのは 人に対して自分がどういう本音をもっているか という本音もあるし、また、相手の人は自分に対して何を言ったとしても 本音の部分で何を思っているかと言うこともある。

つまり 他人に対して自分がむける本音と 他人から自分に向けられている本音と言うことだ。

この部分が実は重要で 本音の部分で自分が他者にどんな思いを持つか。
また本音の部分で他者にどういう印象をあたえるか。

この部分が実は大切 ということを母は言いたかったと思う。

確かに 人生 長い目で見ていくと 建前の部分で人を制圧しても、本音の部分で疎まれていたらそれは負けと言うことになると思うし 建前で負けていても 本音の部分でよい印象を人に与えていたら 長い目で見たら その人は他者に暖かいものを与えていく、そういうものではないかと思った。

ただ、ブッダは 非難と称賛を離れて進め と言っているので 結局は自分に正直に生きていくのが大切と言うことになると思うのだけれど。

それはともかく いちにち いちにち 無事にすぎますように それを第一に願っていきたい。





京都市交響楽団定期演奏会を聴ききに行く(第694回)

2024年10月22日 | 音楽
10月12日京都コンサートホールに京都市交響楽団第694回定期演奏会を聴きに行く。

指揮はデイヴィッド レイランドさん

ピアノ アンドリュー フォン オーエンさんで最初に演奏されたのが
モーツァルト ピアノ協奏曲第23番 K.488

演奏の前に管楽奏者の方々が練習かホールでの音の響き方を確認しているのかわからないけれど、ステージに出てきていろいろ音を出してくださった。

協奏曲23番は僕にとって録音を聴く頻度も高い曲なので、ああ、あのメロディはあの楽器なのかとかいろいろわかってよかった。

演奏を聴くためのいい予習になったと思う。

それで演奏はどうだったのかと言うと、完璧な演奏と思った。

人間って、物足りないところがあると、あそこはこう直した方がいいとか思うから、具体的にどのように物足りないかを言うことはそんなに困難なことではない。

しかし、完璧なものは要するに満足して聴いているわけだから この方がいいとか思わない。

なので 完璧ってどんな風に完璧だったのかと言われても 何しか 完璧だったということになってしまう。

ああ、よかった。

聴くのに力が入って ちょっと バテたけれど。

特に第三楽章は鳥肌モノだった。

指揮者とピアニストの意気もよくあっていた。

ピアノとオーケストラの意気もよくあっていた。

アレグロの楽章は快活だけれどふくよかさもあってよかった。

とにかくよかった。

しいて感想と言えば、快活なのだけれど、その快活さの中にどこか柔らかさがある点がいいなと思った。

それで 演奏とは直接関係ないことだけれど 例えば交響曲の様式を確立した人って古典音楽の時代ではハイドンとよく言われるし、まあ、そうだろうと思う。

モーツァルトは天才だけれどどんなジャンルの音楽の様式を確立したのか、そんなに言われないと思う。

でもモーツァルトの音楽の中でピアノ協奏曲は、様式美の極致だなと思う。

ピアノ協奏曲と言う分野の様式を完璧に確立したのはモーツァルトだと思う。

研究したわけではないから 直感で書いているけれど。

余計なことを書いてしまいました。

でもモーツァルトの音楽で完璧な演奏を聴くことができてよかったと思う。

彼の音楽は微妙に変化する要素が多い分、完璧だと思う演奏に遭遇することは、のっけから、あきらめてしまっていることが多い僕だったから。

コンサート後半は
ムソルグスキー作曲ラヴェル編
展覧会の絵が演奏された。

モーツァルトの演奏が良くてグーっと力が入って後半のムソルグスキー ラベル編曲の展覧会の絵の演奏時には もう僕はバテテしまっていて、ボーっとした感じで演奏を聴いていた。

でも ボーっとして聴いていてもやはり 演奏はここが物足りないとか全く思わない。

いい感じと思うことばかり。

それで演奏の途中から オーケストラのプレイヤーよりも指揮者デイヴィッド レイランドさんのの方に目が行くようになった。

指揮者を見ていると 音楽の曲想に応じて 細やかに的確に指示の出し方を変化させ、驚くほどの集中力をもってオーケストラにとても誠実に気を送っておられるように見える。

これは 指揮の仕方とやわらかそうな人柄の両方でオーケストラのメンバーを魅了するタイプの方だなと思った。

それも演奏がよく聴こえることに大きく寄与しているなと思った。

いやあ本当によかった。

それはともかく いちにち いちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。





名古屋フィル定期演奏会を聴きに行く(第527回)

2024年10月17日 | 音楽
10月11日愛知県芸術劇場に名古屋フィル第527回定期演奏会を聴きに行った。

指揮は川瀬賢太郎さん。

最初にベートーヴェン シュルホフ編
「失われた小銭への怒り」作品129が演奏された。

ニューイヤーコンサートの雰囲気と思った。

そういうウィーン的な要素のつよい音楽であるように僕には思えた。

もうちょっと具体的に言うと演奏が始まった時、ニューイヤーコンサートでよく演奏されるトリッチ トラッチポルカをなんとなく連想した。

時折、弦楽器のアンサンブルがもう少しクリアなものであればと思った瞬間も少しあった。

次にグルダ
チェロ協奏曲が演奏された。

チェロ独奏佐藤晴真さん
チェロのそばにスピーカーがおいてあったので 音の出どころは楽器かチェロかスピーカかととても気になってしまった。

たぶん両方なのだと思うけれど。

どうも最近音の出どころが気になってしまう癖がついてしまったかもしれないと思った。

メヌエットの楽章一つとっても古典音楽のメヌエットを思わせる場面もあれば、ビゼーやラヴェルのようにスペインとフランス両方の要素を感じさせる場面もあって、多彩な音楽だと思った。

最後の行進曲風の楽章は心の中でプログラムの楽曲解説には軍楽隊のマーチではなくお祭りを盛り上げる街頭パレードのような音楽と書いてあった。

ただ、僕自身はこれを聴いて心の根底でどこかスーザーのマーチを連想しながら聴いている時間が結構あった。

多彩な音楽だから何を連想させるかは人にもよるし、音楽のどの場面であるかにもよるのだと思う。

休憩をはさんでベートーヴェンの交響曲第5番が演奏された。

僕はこの曲の録音はハイティンクさんのものを聴くことが多い。

その演奏に比べてフレージングが驚くほど短い、音が急に小さくなる。そういう場面では 古楽器奏法の要素があるかと思った。

ただ、演奏全体が古楽器奏法的だったというより随所に古楽器奏法的な感じが出ていたという印象を受けた。

オーボエが管楽器のかなめと言うことをベートーヴェンはきっとかなり強く意識してたんだろうなと思った。

どの楽器も活躍するけれど 楽器がソロとして
個別に目立つということはあまりなく すべての楽器が活躍しながら全体の調和の中で機能しているという印象を持った。

そういうことを意識できたのは生演奏ならではの体験だったと思う。

第四楽章のコーダのところではピッコロが転がっていく。

交響曲第9番のコーダでピッコロが活躍するのは録音を聴くだけでわかっていたけれど、恥ずかしながら5番のコーダでもピッコロが活躍するのはこの演奏会で初めて知った。

家に帰ってきてからYouTubeに出ている交響曲第5番の動画を確認すると第四楽章最後の盛り上がりのところで管楽器のファンファーレに重ねるようにピッコロがドレミファソの音階を何度も繰り返す。

こういう音楽のかなめの部分で基本的な音階を執拗に使うのがいかにもベートーヴェンらしいし、またそれが実際に金管のファンファーレを盛り上げるのに驚くほどの効果をもっているのだから改めてすごいなと思ってしまう。

やはり録音で何回も聴いた曲でも生演奏を聴くことで初めて気づくことは多いなと感じる。


定期演奏会でベートーヴェンの5番を聴く機会って意外と少ないのでよかった。

それはともかく一日いちにち無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。


田園交響曲の効果

2024年10月10日 | 日記
夜、国道を自動車で走っていたら、バイクが爆音で走ってきた。

そのとき僕はカーステレオでベートーヴェンの田園交響曲を聴いていた。

爆音がうるさく感じたのと音楽に集中すると爆音が幾分気にならなくなるので僕はカーステレオのボリュームを普段は20くらいのところ35くらいまで上げた。

信号待ちの時、バイクは僕を追い越して僕の前で止まった。

その時、田園交響曲は第三楽章、田舎の楽しい気分から第四楽章、嵐に変わった。

嵐の雷を表現するティンパニーの爆音がなった時、爆音バイクの人は、信号のわきにあったガソリンスタンドに思わず飛び込んで行った。

爆音バイクの人にとっては田園交響曲、嵐のティンパニーは聴きなれないタイプの爆音だったのだと思う。

これは 聴いたことのないタイプの音だぞ とりあえず 逃げたほうが安全かも と爆音バイクの人は思ったのかもしれない。

僕は丸刈りだから夜だとこわもてに見えるかもしれないし。

夜の 国道 怖いのはお互いさまと言うことなのだと思う。

でも そのバイクが ガソリンスタンドに飛び込むさまはちょっとユーモラスでもあったから、たぶん爆音バイクの人やその友達はきっと僕に仕返しに来ないと思う。

これに味を占めて何度も同じことをやっていると危ない気もするけれど。

人生60年以上生きてきて 田園交響曲の思わぬ効果を知った。

それはともかく 一日 いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。

理にかなう

2024年10月09日 | 日記
10月1日の23時過ぎに東の低い空に冬の正座オリオン座をみつけた。

10月1日の半年後は3月1日

たぶんそのころになるとオリオン座は逆に西の空の低いところに行ってまもなく見えなくなるのだろう。

冬を中心とした半年間、夜空に見える星座。

丁度、計算通りになるところは理にかなっている。

老人ホームに父を尋ねたら、父は、「最近、春と秋が本当になくなってきた」と言う。

「でもね 東の空にオリオン座を見たよ」と父に言ったら「そうや、天の軌道だけは正確や」と父は言った。

船乗りだった父はそれを誰よりも知っているのだと思う。

星を頼りに船は位置を測っていたのだから。

GPSが発達した世の中でも海の中で星が読めなかったら、命に係わる問題になってしまうと思う。

機械がなくても理がわかる意識を持つことは生存のために大切なことなのだと思う。

実行できているかどうかはともかくとして、、、。

世の中、理にかなわないことが多くなったと思う今日この頃だけれど、それでも理というものを意識しなら、生きていきたいと思う。

それはともかくいちにち、いちにち無事に過ごせますように。それを第一に願っていきたい。