僕の実家は、小さい神社を営んでいる。
小さいけれど毎朝、数人の人がお参りに来てくださって、朝のお勤めをしている。
そのお勤めの後に、母がちょっとした小話をすることがある。
その母の小話の中に、人間には本音と建前がある、また本音があっても言うと差しさわりがあるから波風を立てないために、何も言わずに流れに合わせていくことも人生の中には多々ある。
そんな話があった。
そして、母は、このように話をつづけた。
人は建前ではいいことを言うことが慣例だし、また本音では嫌だと思っていても波風立てないために無言で流れに従っていくこともある。
しかし、人間が罪を作ったりまた人に暖かい印象を与えたりするのは、建前や不本意な沈黙の部分ではなく むしろ 本音の部分にある。
人は本音の部分で罪を作ったり 暖かいものを残して行ったりする。
そういうものだと。
その話を聴いて 僕はこのように思った。
本音と言うのは 人に対して自分がどういう本音をもっているか という本音もあるし、また、相手の人は自分に対して何を言ったとしても 本音の部分で何を思っているかと言うこともある。
つまり 他人に対して自分がむける本音と 他人から自分に向けられている本音と言うことだ。
この部分が実は重要で 本音の部分で自分が他者にどんな思いを持つか。
また本音の部分で他者にどういう印象をあたえるか。
この部分が実は大切 ということを母は言いたかったと思う。
確かに 人生 長い目で見ていくと 建前の部分で人を制圧しても、本音の部分で疎まれていたらそれは負けと言うことになると思うし 建前で負けていても 本音の部分でよい印象を人に与えていたら 長い目で見たら その人は他者に暖かいものを与えていく、そういうものではないかと思った。
ただ、ブッダは 非難と称賛を離れて進め と言っているので 結局は自分に正直に生きていくのが大切と言うことになると思うのだけれど。
それはともかく いちにち いちにち 無事にすぎますように それを第一に願っていきたい。