ケンのブログ

日々の雑感や日記

若き日をおしみけり

2021年10月12日 | 日記
ちょっとさびれたお宮の脇を通ったら柿の木があった。

ちょっと見るとかなり色づいている。

もう少し色づいたらもいで食べたくなるくらい。

蒸し暑い日が続くけれど秋だなあと思う。

飛騨の白川村で紅葉がかなり進んでいると新聞に出ている。

平野部はまだまだだけれど、標高が高くなるとそうなのかなと思う。

一度、白川郷へ行きたいと思っていたけれど、この分だといつかと思っているうちに雪になってしまいそうな気がする。

今日の地方紙の短歌の欄にこんな歌が出ている。

“”
乗鞍のてっぺんに立ちし若き日のスカートの赤は風になびきけり “” (岐阜市Tさん)

若き日を惜しむ気持ちは男と女で違うのかも知れない というか 違うのだろうと思う。

高校の制服を着て自転車でかなり長距離走る女の子を見ているとすごいなと思うけれど、本人も何十年か後には、今日のことが懐かしく思い出されるのかも知れないと思う。

僕が通っていた歌声教室でピアノ伴奏をしていた女性の先生は、学校を出たての頃の写真をコンサートのプロフィール写真に使っていたような気がする。(本人に確認したわけではないので『怖くてとてもそんな話できなかった』知らないけど、なんとなくそんな気がした)

単に写真を取り直すのが面倒なのか、若い頃の写真を載せたいのか。

今の写真をのせればいいと思ったこともあるけれど。

その先生に、「初めて歌声教室に行ったとき先生のことアラサーと思いました」と僕が言ったら、先生は「そんなこと言っても何も出ませんよ」とお答えになった。

本当にそう思ったから言っただけなのに。

時々、若い頃の吉永小百合さんの映像を見ると胸がキュンとなったりして。

戦後早々に生まれた世代の人って、若い頃は、なんか凛々しくて希望に満ちている人が多かったようにも思える。

そう思うのが年取った証拠かもしれないけれど、、、。

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昨日、水田の中の横断歩道に立憲民主党の候補者の方が来ていた。

その水田の近くに大型商業施設があるのでそこに自動車で来る人にアピールするためだったのだと思う。

徒歩でその横断歩道にいたのは僕だけだった。

水田の中で、国会議員の候補者と横断歩道をはさんで対面すると、かなり緊張する。

目を合わせずに横断歩道を渡って、帰りにもう一度その交差点を通るときには、横断歩道から少し離れたところを渡った。

大阪の中核都市の駅で候補者に合う機会は頻繁にあったけれど、都会の駅だと大勢の中の通りすがりとしてその人に会うだけなのでさして緊張もしない。

中核都市のちょっと外れの駅で階段を降りていったら階段の下にT元清美さんがいらして、手を差し出してこられたので思わず握ってしまった。

いやあ、柔らかい手と思った。

この人しゃべらんかったらかわいいのにと思ったりして、、、。

さっそく国会で接待疑惑の質問をしておられるようだけれど、、、。

選挙も近いなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。


天国に行きたくねえんだな

2021年10月12日 | 日記
朝はけっこう寒くなったと感じるけれど、昼は蒸し暑い日が続いている。

コンビニでブルゾンを着ている人を見かけたので、この暑いのにブルゾンの人も居るんだなと思ってみたらバイクでツーリングしている人だった。

そういう人、何人か見かけた。

確かに季節的にバイクのツーリングにいい時期なのかなと思ったりする。

ツーリングってしたことないのでいつがいい季節なのか実感があまりないけれど、、、。

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シェイクスピアの「お気に召すまま」を読んでいたら、登場人物のセリフにこんなのがあった。

「主人はごうつくばりの男でして、天国へ行きたくないのか他人様に親切を尽くしっこない」と。

何気ない台詞回しだけれど、不親切な人を見たとき
「クソー」と思っているよりも「あいつは天国に行きたくねえんだな」と思っていたほうが心に対する衝撃は少ないように思う。

そういうのは一つの叡智であるように感じる。

それはともかく いちにち いちにち 無事ですごせますように それを第一に願っていきたい。

名古屋だけ採用

2021年10月11日 | 日記
久しぶりにお宮へ。

関西ではコロナになってからお宮の手洗い場の柄杓が撤去されていたけれど、こちらのお宮は柄杓があった。

しかし、水が常に流れる状態になっているわけではない。

なので、形だけでも手洗いをと思いやってみる。

柄杓を持って左手を洗い右手を洗い左手に水を受けてもう一度左手をすすぎ柄杓をおく。

身体が覚えているからなんとなくできるけれど、ひさしぶりなので、あれ これでよかったっけ? ちょっと心配になってくる。

自動車に戻って思わずネットで手水の作法と検索して確認してしまう。

大体の流れは間違ってなかったようだ。やれやれと思う。

境内の木を見る。

楓はまだ色づいていない。

まあ、そんなものかなと思う。

北アルプスの標高2000メートルくらいのところは紅葉が見頃と新聞に出ている。

新聞写真をみるとたしかに真っ赤になっている。

何年か前に、京都のあるお寺に、「紅葉は今が見頃ですか」と電話をかけてきた人がいて、住職さんが「見頃と言ってもひとそれぞれにいつが見頃と思うか違いますし」と苦しい弁明をしておられたことを思い出す。

本当に、そんな電話をしてからお寺にいくかどうか決めるって、考えがさもしすぎるようにも思う。

ちなみに僕は、関西で自分のお気に入りのお宮に行くときには、緑から赤へのグラデーションが見事に出た瞬間が一番の見頃と思っていた。

その見頃を捉えるためには本当に頻繁にお宮にいかなければならない。

当時は頻繁に行っていたなと思う。

あの、お宮、いまどんな感じなのだろうと思いを馳せる。

淀川をはさんで南側のお宮と姉妹関係にあるお宮だった、、、。

懐かしいな。

今からもう懐かしいと思ってしまう。
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アスコン社の学校用端末が不具合の発生が多くてリコール(無料の回収、修理)になった問題で、名古屋のブロック紙には「名古屋だけアスコン製採用」と自虐的な見出しが踊っている。

自治体への納入実績がない業者だったとも書いてある。

そんな書き方が、自動車はトヨタ、百貨店は松坂屋という土地柄だなと思ったりする。

今は、名古屋でも百貨店は松坂屋と思う人の割合は減ったけれど。というか百貨店で買い物をするひとそもののが減っている。

百貨店も資本の統合でいろいろ変化してしまったし、、、。

市教委の言葉として「(端末が)動かないなんて想像もしなかった」と出ている。

関西の言語感覚になれていると、生ぬるい言い方だなと思う。

まあ、最初から動かないことを想像して業者を選ぶ人はあまりいないと思うけれど。

コロナでなにかと大変なことが多いなと思う。


それはともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。


地震が揺する

2021年10月10日 | 日記
「むちゃむちゃに揺すっとったというより、波打ってきたでなあ。『地震や』と思って外へ出ようと思っても、芋転がすようなもんで、ドカンドカン ダダーッと来たと思うと、はや芋穴の中へ落ってまっとった」

上記は今日の岐阜の地方紙に掲載された、1891年の濃尾地震のときの被災者の聞き取り記録からの引用だ。
※この引用は先日の東京の地震に関連する記事の中でなされています。


ちなみに芋穴は地面に穴を掘ったイモ類の貯蔵庫という。

むちゃむちゃに揺する

濃尾平野以外の出身の方は、この表現、違和感をおぼえると思う。

地震なら 「むちゃむちゃに揺する」 ではなく 「むちゃむちゃに揺れる」が全国的には普通の言い方だと思う。

僕の母はいまでも普通に「地震が揺する」という。

子供の頃からこの言葉、親から聞かされてきたので、岐阜以外の地域で、何の気無しに「昨日、地震揺すったな」と言うと、友達から「ええ、揺するって何が揺するの?」と怪訝な顔をされた。

まあ、全国標準だと「地震が起きる」だろうし。

「地震が揺する」

どういう語源なのだろう。

ちょっとわからない。

揺する をネットの辞書で調べると

「天地揺すりて響く」という宇津保物語からの引用がある。

この場合の「揺する」は「揺れる」という意味だと書いてある。

まあ、それが国語の解説としては正しいのだと思う。

ただ、「地震が揺する」という表現

どこか 貧乏揺すり のように 地球が自らの身体を揺すっているというイメージがあると僕は思う。

伊勢物語の中に「雷が鳴る」という意味で「神鳴る」という表現があったと記憶している。

雷は神が鳴る

地震が揺する もそれに近い感覚なのではないだろうか

地震 が 地の神様で それが地面を揺する そういうイメージであるような気がする。

もちろん 僕は学者でないし、文献を当たって語源の研究をしたわけではないので、単なる想像だけれど、、、。

いずれにしても 岐阜や名古屋地域ではいまでも バカのことを たわけ というし
「失礼します」というシチュエーションで「ご無礼します」という人もいる。

このように古めかしい表現が岐阜、名古屋地区に現役で残っているのは面白いといえば面白いと思う。

「芋穴のなかに落ってまっとった」というのは標準語に直すと
「芋穴の中に落ちてしまっていた」となる。

そういえば八王源先生 いやなことがあると
「いやんなってまう」というのが口癖だったなとしみじみと思い出す。
※「いやんなってまう」は標準語に直すと「いやになってしまう」です。

まあ、いやなことがあっても「いやんなってまう」と言って、頭をポリポリ掻いて過ごすことができればそれは一つの幸せだとは思う。

2日ほど前の岐阜の地方紙に岐阜県出身の総理大臣が一人もいない理由の一つとして 岐阜県人は野心が少ないということが書いてあった。

それは「落ちてまう」とか「いやんなってまう」とか、生ぬるい言葉を使っていては野心も鈍るのかもしれないと思ったりもする。

野心もときと場合により必要とは思うけれど、、、。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。


自転車

2021年10月08日 | 日記
自転車に乗る人を見かける頻度は大阪でも岐阜でも実際にはそれほど変わらないというかむしろ大阪のほうが高いような気がする。

それでも、岐阜に来てからのほうが自転車に乗る人に目が行くようになった。

大阪では徒歩が多かったけれど岐阜では自動車に乗っていることが多い。

自動車に乗っていると、自転車はやはり要注意の対象なので目につくということもあると思う。

もう一つ、思うのが、岐阜の人のほうが学生でもそうでない人も、自転車に乗る場合はそれで長距離移動する人の割合が多いように思う。

大阪だと、ある程度以上の距離になると地下鉄とか、公共交通機関を使うことが多いので。

自転車で長距離移動する人は気合十分でガーッという感じて自転車を漕いでいる。

またジャージなど、自転車に乗りやすい装備で乗っている人の割合も多いように感じる。

そういう人が基本的には、水田風景の広がる場所を自転車に乗って一生懸命漕いでいるさまを見るのは、ちょっとした風物詩のように僕には思える。

いいものだなあと。

そういえば、自動車の運転免許を取ったときに10歳ほど年下のいとこに感想を聞かれた。そのいとこは当時中学生くらいだったと思う。

僕は自動車の感想をそのいとこに聞かれて「それは自動車はいいよ。こがなくてもいいもん」と言ったら、そのいとこにそこそこ受けた。

僕も、自転車をこぐ という生活が板についていたから自動車の免許をとったときに自動車はこがなくてもいい という感想を持ったのだと思う。

まあ、そんな昔のことをふと思い出したりする。


それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に考えて行きたい。