ケンのブログ

日々の雑感や日記

三月十日

2018年03月10日 | 日記
大阪北のターミナルに来た。
吉野家に入って白カレーを食べる。
吉野家で白カレー、黒カレーと二つバリエーションになったことは
ありがたいなと思う。同じカレーでも白と黒ではずいぶん食感が違う。
気の向き加減でどちらにしようと考えられるのは楽しみのひとつでもある。
僕よりすこし遅れて入ってきた若いビジネススーツの男の人は
スタミナ丼ネギ抜きを注文なさった。
せっかくネギと肉でバランスがとれているのにネギ抜きを注文するのは
もったいないなとネギ抜きを注文される方を見るたびにそう思う。
好き好きなので何を注文しようとその人の自由なのだけれど。
ネギを抜くなんてもったいないという先入観があるので
なんかその人のお顔をちょっと見ると
「僕、ネギ嫌い、ピーマン嫌い」というようなお顔に見える。
先入観って怖いなと思う。
でも、もし僕がこの若い人と同じ会社だったら
なるべくかかわらないように努力すると思う。
そういう努力がなかなか実らないから会社勤めの方が
苦労するのだとは思うけれど。
いやあ、ちょっとした先入観って怖いなあと思う。
すぐそばの喫茶店に入ると女の人が
僕の方を見てにやにや笑っている。
ズボンのチャックでも空いているのかとチェックしたらそうではなかった。
しばらくしてその女の人はスマホでハンズフリーで通話をしているのだと
わかった。いろいろとわからないことの多い世の中だなと思う。

三月八日

2018年03月08日 | 日記
雨模様のお天気。
ずいぶん暖かくなっているここ数日だけれど
今日はやや寒いかなと思う。
昨日タバコやさんの奥さんに「今日は寒いといってもまだましですね」と言ったら
奥さんは微妙な顔をしておられたので内心、僕の意見に同意しかねると
思っておられることはなんとなくわかった。
しかし昨晩は深夜になって確かに寒くなってきた。
タバコやの奥さんの感じ方が正解だったと思う。
今日も微妙に寒いけれどそれでも二月上旬にくらべれば
だいぶんましだなと思う。
しかし、僕は冬場はコンサートホールにいくとお客さんよりも
むしろ演奏する人と同じくらい薄着になってしまう体質なので
あまり自分の体感温度があてにならない。
こういう日はあまり人に暑いですね寒いですねは言わない方が無難かもと思ったりする。
ここ2、3日由紀さおりさんの夜明けのスキャットをユーチューブで
聞いていていやあ由紀さおりさんうまいなと感心している。
40年以上前のヒット曲がまたクローズアップされそれが
テレビで放映されその映像がユーチューブに何本もアップされることも
すごい。
これだけ由紀さおりさんが長く活躍できるのもやはり
基礎がしっかりできているのと、さおりさん自身の人柄
芸術的感性によるところが大きいと思う。
それに、歌っておられる姿が美しいと思う。
典型的なマイナーのコード進行をしていく曲なので
この歌は子供の頃から好きだった。
ただこの年齢になって音楽の知識が蓄積された上で聴くと
夜明けのスキャットとサイモンとガーファンクルのサウンドオブサイレンスとの
コード進行やメロディラインの類似性にはいやでも気づくことになる。
夜明けのスキャットを聞いた直後におもわずサウンドオブサイレンスを
口ずさんでしまった。
うん、似ているなあと思ってネットをみていると
夜明けのスキャットと検索するだけで夜明けのスキャット盗作という
検索候補が出てきてそこをクリックすると夜明けのスキャットは
サウンドオブサイレンスのパクリ、中国と一緒にされると困るから
外国でこの歌を歌ってほしくないというような主張が
展開されているサイトにヒットする。
盗作かと思う。
クラシックの世界ではメロディのパクリはいくらでもある。
ベートーベンの魔笛の主題による変奏曲は言うまでもなく
モーツァルトの魔笛の主題のパクリだ。
しかし、メロディの提示の段階でモーツァルトとベートーベンでは
すでに違う。同じメロディの音を一ヶ所変えるだけで
モーツァルト的なものがすでに
ベートーベンの世界になってしまう。
そこがベートーベンのすごいところなのだけれど
そしてそれはそのままモーツァルトのすごさでもある。
一ヶ所音を変えるともうモーツァルトの美しさは損なわれてしまう。
クラシックの場合、メロディもさることなららその後の展開
そしてハーモニーがむしろ作曲家のうでの見せ所なので
メロディをパクっても展開がすばらしければ誰も文句を言う人はいない。
実はベートーベンの交響曲第三番は変ホ長調。
その後リヒャルトシュトラウスという作曲家が英雄の生涯という交響詩を
書いたけれどこれも変ホ長調。
ベートーベンの英雄にあやかって英雄の生涯も変ホ長調であることは
たぶん間違いないと思う。
ところで変ホ長調の交響曲にはさらに先例があって
モーツァルトの交響曲第39番は変ホ長調だ。
この交響曲第39番のイントロダクションで出てくる
それこそ英雄的な音列とベートーベンの英雄交響曲の
主題の音列は音の伸ばし方の比率が違うだけで全く同じだ。
調性も両方とも変ホ長調なので本当にまったく同じ音列ということになる。
僕はモーツァルトの交響曲第39番もベートーベンの英雄交響曲も
小学生の頃から聴いているけれど、二つの交響曲の重要な
モチーフがまったく同じ音列であることに50才を過ぎてからはじめて
気づいた。気づいたときはちょっと興奮した。
そうだったのかと。
ベートーベンの繰り広げるあまりに壮大な世界にひきこまれて
40年以上も気づかなかった。
さて、話をもとに戻して夜明けのスキャットとサウンドオブサイレンスの
ことだけれどこういうポップソングにはクラシックのような
本格的な展開部がないのでもちろんクラシックと同列に語ることは
できないけれど、夜明けのスキャットはメロディの前半は
サウンドオブサイレンスに酷似しているけれどメロディー後半の
いわゆるさびの部分はサウンドオブサイレンスにはない伸びと
広がりがある。
それに、サウンドオブサイレンスという歌が持つ哀愁は
夜明けのスキャットにはない。
似て非なるものという言葉があるけれど
夜明けのスキャットはサウンドオブサイレンスに似て非なるものだと思う。
サウンドオブサイレンスに着想を得ている可能性は極めて高いけれど
盗作でないと思うし、それにめくじらをたてていたら音楽が
つまらなくなるととても個人的にはそう思う。

三月七日

2018年03月07日 | 日記
イチロー選手の移籍先がマリナーズに決まったというニュースを
見たときちょっと涙ぐんでしまった。
この方どこまでもできるところまでやる方なんだなと思って。
キャンプが始まってもまだ移籍先が決まらないので
僕は半分諦めていた。
本当に辛抱強く決める方なんだなと思う。
年棒が全盛期の35分の一に下がっても契約するのも
なかなかできることではない。
今までにかせぐだけかせいでしまっているといえばそれまでかもしれないけれど
普通の人間だったら給料が三十五分の一に下がれば
こんなに下がったんか、俺もダメだなと落ち込んでしまう。
それに稼いでも稼いだだけ使ってしまってすっからぴんという人も
すくなからずいるのも事実。
辛抱が肝心ということは金光様もおっしゃっている。
せっかく信心していても辛抱、堪忍がたりないと
おかげを落としてしまうと。
おかげを落とすという言い方が金光さん独特の言い回しだけれど
簡単でわかりやすい表現だなと思う。
イエスや釈迦の教えは外国語を日本語に
翻訳したもので接するので翻訳の際に生じる
言葉のずれで解釈がおかしくなることもある。
僕に今思い浮かぶ典型的な例は
聖書は律法という言葉を使うけれど
英語の聖書では立法はlawとなっている。
lawは日本語に訳すと法律。
こうなるとなぜ日本語に訳すとき律法、法律と使い分けるのか
わからなくなってくる。
しかし、英語では律法と法律は一律でlaw と言うことを
しるとすこし知識というか考え方の幅が広がる。
例えばモーセの十戒にあなたは殺してはならないとあるけれど
これは今日の殺人罪としても通用する。
日曜日がおやすみという法律があるかどうか知らないけれど
日曜日がお休みの起源もモーセの十戒の
安息日を覚えてこれを聖とせよが起源であることは
ほぼ間違いない。
日本で日曜日が聖なる日という感覚はないけれど。
ヨーロッパでは毎週日曜日に教会で演奏して
そのことで高い評価と信頼を得ているオーケストラもある。
もちろんあなたは盗んではならない、も今日の窃盗罪として
通用する。
ところが律法と法律を混同することで生じるまちがいというものもある。
先日、社会の入試問題を見ていたら
神の前にはみな平等で信仰すればだれでも救われると
説いた人物は誰かまたその教えはという問題があって
答えはイエスでキリスト教となっていた。
それを見たとき僕はこんな入試問題があってもいいのかと思った。
僕の知る限り聖書のどこにも神の前には人間は平等とは書いてない。
このことは新渡戸稲造も指摘していて

例えば、男性の場合においてさえ、お互いに平等であるというのは
法廷や投票の場合など極めて限られた場合においてだけである。
このように考えてみると両性(男女)の平等に関する議論で悩むこと自体が
無駄に思えてくる。
アメリカの独立宣言が、すべての人間が平等に作られていると言うとき
それは人間の知能や肉体的能力に関して言われたわけではなかった。
それは単に、その昔ウルビアヌスが「万人は法のもとに平等である」と
述べたことを反復しているにすぎない。この場合、人間の平等の
基準は、法律上の権利にあるとされていたのである。

と武士道という書物のなかで述べている。
そう、法の下の平等という観念はあるけれど
神の前に平等という観念はない。
ここを読んだとき新渡戸稲造ってすごいおじさんだなと
感心してしまった。
しかし、神の前に平等という言葉はないけれど
金光さんは神の前にはみな氏子
天が下には他人はいない。といっておられる。

これもまた日本の神さんに特有の日本人には
とてもわかりやすい表現だなと思う。

ちょっと話が書き始めた時とはあらぬ方法に進んでしまったけれど
イチローが日米4000本安打を記録したとき
王貞治さんは「イチローくん、いや、イチローさん
気のすむまで野球をやってください」とコメントされた。
そのときは王さんがイチローくんといったあとイチローさんと
言い直すことに驚いてしまい、王さんのことがますます好きになったけれど
今では結局あのとき王さんがおっしゃった通りの展開になっていることに
驚いてしまう。
イチローさん、出場機会が減っても気にしませんから
気のすむまでやってくださいと僕も言いたい気持ちになってくる。

三月六日

2018年03月06日 | 日記
晴れのお天気。相変わらず暖かい。
こういうお天気になると結構薄着の人も見かける。
僕もマフラーをしたりはずしたり、いろいろ調節している。
二月の上旬にはカッターシャツの上に二枚ベストを着て
その上にセーター、ブルゾンと着ていたのだけれど
二枚のベストが一枚になり今ではカッターシャツの上に
直接セーターを着ている。
このまま暖かくなるのかまた寒さがぶりかえすのか。
僕はテレビをほとんど見ないのでお天気の先行きのことが
あまりわからない。
新聞のコラムに何日か前に春一番が吹いたと出ていた。
いつ吹いたのだろう。朝、風が強かった日があったから
ひょっとしたらあれが春一番だたのだろうか。
ちょっと情報不足でよくわからない。
その気になって調べたらわかるのだろうけど。
新聞のコラムの筆者は春一番にまつわる記事で
キャンディーズの春一番の歌詞を引用しておられた。
僕もキャンディーズの春一番がヒットした頃は
たしか中学生だったのでよく覚えている。
王貞治さんが756号ホームランをうって国民栄誉賞
第一号になったり。本当にいい時代だった。
日本中がホームラン世界記録だと思っていたし
日本とメジャーでは球場の広さが違うとか
投手のレベルが違うとかことさら文句をたれるテレビの
コメンテーターもいなかった。
もちろん球場の広さが日本とアメリカでは違うことは
客観的事実として新聞には書いてあったけれど。
でも、だからそんな記録意味がないという人は当時は
基本的にはいなかったと思う。
いい時代だったな。とおもう。
白鵬は前人未到の40回優勝しても
べつにルール違反しているわけではないのに
張り手やかちあげが卑怯な手段であるかのように
書かれて白鵬ファンの僕としてはなんだか気の毒になってくる。
三月場所前のインタビューでも白鵬はできるだけ張り手や
かちあげはへらしていきたいと言っていたからやはり
気にしているんだなとおもう。
僕が知る限り国民栄誉賞を辞退した人は二人いる。
一人はイチロー選手。
まだ現役で道半ばなのでというのが理由だったとおもう。
もう一人がやはりプロ野球の福本豊選手。
福本豊選手の通算盗塁数は1065盗塁で
二位の広瀬選手が576盗塁。
一方王貞治さんの通算本塁打が868本、二位の野村克也選手が657本だから
福本選手の盗塁数の方が実は王選手の通算本塁打数よりも
大きく二位以下を引き離していることになる。
王さんが二位をもっとも引き離している記録は僕の知る限りたぶん
通算四球だと思う。
これは王貞治さんの通算四球が2390二位の落合博満さんが1475なので
かなり開いている。
王さんがピッチャーにいかに警戒されていたか
ストライクを投げてもらえなかったかを物語る記録のような気がする。
それはともかくとして福本選手の盗塁記録も
今では考えられなくらい二位をおおきく引き離した
ぶっちぎりの記録だ。
国民栄誉賞の打診は当然のことと思う。
福本さんがこれを辞退した理由は
「国民栄誉賞、そんなもんもらったら立ち小便もでけへんようになる」という
ことであったと思う。
福本さんが引退したのも本人はまだやる気だったのに
当時の阪急ブレーブスの上田監督(先般故人になられた)が
シーズン終了の挨拶で間違えて「去る福本」といってしまったので
それならしゃあないということで引退したと伝えられている。
面白いおじさんだなと思うけれど、こういう人が一人くらいいてもいいと思う。
そういえば福本さんも、監督をなさったことはないなと思う。
すごい実績なのに。
吉野家にいったら、女の人が隣の席にバッグをおいて食べていたので
座る場所がなかった。
僕が二階席へ行こうとすると店員の方が女性にバッグをどけるように
促した。
それで僕は空いた席に座った。
女性はバッグを膝の上においてカウンターで食べていた。
吉野家のカウンターのような狭い場所で膝の上に
バッグをおいて食べていたら、窮屈でしょうがないと思う。
僕の個人的な感じ方だけれど。
僕は子供の頃から床に落ちた食べ物は食べる
という習慣だった。(人が見ていないときは)それで一度もお腹を壊したことがない。
自分の経験則で床の上というのはそれほど汚いものではないと
思っているので平気で床の上にバッグやその他いろんなものを
おいてしまい人から注意されることもままある。
注意されればやめるけれど。
そのかわり空いた席に鞄を置くということは
お店や車両ががらすきの場合を除いてほとんどない。
一人でも多くの人が座れるように。
切手濡らしたり、スーパーのレジ袋を濡らしたりするスポンジは
気持ち悪くてほとんどてを触れたことがない。
切手を貼るときは自分の唾液で濡らして貼る。
自分の唾液なのでみんながてをつけるスポンジよりもよほと安心できる。
よく酵素のパワーで汚れをおとす、というテレビコマーシャルがあるけれど
唾液にも消化酵素が含まれている。
そのせいか手あかがついた液晶画面などに唾液をすこしつけて
布でふくととても汚れがよく落ちる。
しかし、切手に唾液をつけて貼っているときもよく
会社で不衛生と注意された。
注意されればやめるけれど、なぜ不衛生なのか今一つよくわからなかった。
衛生、不衛生の観念、あるいはタバコの煙の害に関する
個人個人の感じ方というのは
案外、社会習俗の暗示にかかって害があるとか汚いとか
思ってしまうということもあるような気がする。
そんな気がするとういうだけの話だけれど。

和太鼓フェスティバル

2018年03月05日 | 日記
昨日は隣の町の劇場に和太鼓フェスティバルを見に行った。
隣の町は和太鼓が盛んな町で市内の九つの団体が
三時間くらいにわたって和太鼓を披露してくださった。
和太鼓と言えば男がするものというイメージがある。
というかオーケストラのティンパニーも女性奏者というのはあまり見たことがない。
ところが隣の町の和太鼓フェスティバルで演奏というか演技してくださる
人をみているとざっと7割くらいは女性であるように見える。
本当に吉野家の店員さんとかも女性が圧倒的に多いし
隣の町は女性パワーの町かと思ってしまう。
二階席で見た。なので舞台が遠く堂々と太鼓を打っているひとの
構えをみると男の人かと思ってしまう。
ところが双眼鏡で拡大してみると女性がうっているので驚いてしまう。
ボーイッシュな感じでかっこいいといえばかっこいいのだけれど。
男性が多い団体もあったけれど僕のあくまで個人的
感想では迫力はあるけれど演奏が大味になっていたような気がする。
ある高校の女子部員は演技のあとで
太鼓をしていると肩幅が広くなってしまって着る服がなくて困る
と言っていた。たしかに太鼓を叩いている人の腕をみると
二の腕が太くてきれいな筋肉がついている。
ただ、僕の個人的感想としてはそれが美しいと思うのだけれど。
口には出さなくてもそういうキリッとした姿にあこがれて
太鼓を始めた子もすくなからずいるかもしれない。
太鼓を叩く人はとにかく構えの姿勢がいい。
立ち姿も座った姿も。
立ち姿は基本腰を低く構えるのでそういうのは
和太鼓も相撲もある程度共通するものがあるのかもしれない。
あと、最近の子はダンスネイティブというかダンスの要素を
太鼓の演技に取り入れている団体も多い。
座って打つ姿もいくつかパターンがある。
正座に近い座り方で打つパターン。
ヨガのがっせきのポーズからちょっとあぐらのように
足をクロスさせるパターン。膝を床につけた相撲の蹲踞の姿勢のようなパターン。
どの座り方を見てもいかにもたんでんに力の入りそうな座り方で
見ていてとても参考になる。
普段からああいう姿勢を基本に座るように心がければ
きっと全身にインナーマッスルがきれいにつくような気がする。
ある高校の演技が終わったあと男子部員がアナウンサーのインタビューに応じた。
三年生の男の子だったのでアナウンサーが「しんろはどこになりましたか」と話をすると、
男の子は「きまってません、浪人です。でも今日は完全燃焼しました」と言ったあと
感極まって泣いてしまった。
泣くことそのものはリラックス効果があるので泣いたらいいと思うのだけれど
やはり、感極まって高校生の男の子が泣くのをみるといろいろ考えてしまう。
まずこの太鼓のフェスティバルに出場する高校はどの高校もレベルが高い。
僕は和太鼓の演技をそれほど見ているわけではないけれど
オーケストラはしょっちゅうきいているのであれだけの太鼓の演技を
しようと思えば並大抵の練習ではないであろうことは想像できる。
この男の子は去年のフェスティバルでもフェスの実行委員長をしていたので
きっとそれほど勉強する時間がなかったのだろう。
今時は本当に語弊を承知でいえば名前だけ書いて
あとは白紙で出すとか明らかに反抗的行為をしない限り
合格するという大学はすくなからずある。
それを浪人というのはいきたい大学があって
そこの一般入試での合格を目指すパターンと考えてまず間違いない。
目指すのは高校の学力ランクから考えて
私立大学である蓋然性が高い。
国立を目指すということはちょっと考えられない。
国立は数学も入試に課されることが圧倒的におおい。
大学入試の数学は中学、高校の集大成なので
高校に入る時点で上位20パーセント以内くらいの高校に入っておかないと
また、入る学習の到達度でないと国立の入試の数学で
ちょっと勝負できない。
となるとある程度の有名私大を目指すことになるのだけれど
これも現役の時に勉強をしていない子にはそれほど甘い道ではない。
部活の体力と勉強の体力はまた別物であるということもある。
そんなことを考えるとこの男の子にこれからどんな一年が待っているのだろうと
思ってしまう。
僕の時代だったら浪人する子はそこそこいたけれど
今は塾や予備校も現役生にシフトするほど浪人する子が少ない。
おまえも浪人か、まあがんばろなと励まし合える友達も僕の時代よりは
少なくなってしまう。
あと思うことは、同じ部活でも野球で活躍すれば
有名私大に推薦で入れることもあるけれど
和太鼓ではいくら頑張っても推薦の枠はないだろう。
スポーツ推薦というのは聞いたことがあるけれど
和太鼓推薦というのは聞いたことがない。
なんか同じ部活で頑張っても不公平だなと思ってしまう。
しかし、高校を和太鼓で頑張ったことは決して無駄にはならないだろうし
無駄にしてほしくないと思う。

太鼓のおとを聞いていると心になんとも言えない気合いが入ってきて
落ち着くのを感じる。
和太鼓は神事にも用いられるしそういう気合いの要素が
日本人にとってはあると思う。
というか神道のおさいせんをいれてどらをならして
柏手をうって二杯二拍手一杯で祈ること自体に気合い入れの要素がある。
その意味でもお祈りは効く。
女性が太鼓を横に肩からひもで下げてその左右を手首を
優雅に返しながら打つさまはやはりみていて美しい。
手首の赤いサポーターもきりっとしていておしゃれに決まっている。
この太鼓を肩からよこに吊って左右を叩く仕方は
現役高校生の団体、OGの団体両方やったけれど
手首を返すときの動きの優雅さにはOGの団体の方に一日の長があるようだ。
経験を積むことではじめて醸し出せる優雅さもあるということなのだろうか。
笛を用いた団体が2つほどあった。
オーケストラ的な表現をすれば二管編成の笛だったのだけれど
和声がとても美しい。和声は西洋的な和声だけれど
西洋楽器の醸し出す和声の美しさとはまた種類が異なるように思える。
ブレスの時の呼吸音がかなり深いのできっと練習で
肺活量がかなりのものになっていると思われる。
笛を吹くときの立ち姿もキリッと引き締まっている。
和風の衣装なのでみていると少年忍者のような感じに見える。
あと笛の奏者がダンスをしながら吹いている場面もあって
あれほど深いブレスが必要な笛をよくダンスをしながら吹けるなと
驚いてしまった。
最後に出てきた高校の中心的な女の子は
一人で五つの太鼓を同時にさばいていた。
どのくらい練習するとあのさばき方がマスターできるのだろう。
そんなことを考えてしまった。

ここのところ一週間くらいショスタコーヴィチの弦楽カルテットが
ポータブルCDプレーヤーで音楽を聴くときのヘビーローテーションに
なっている。
若い頃はショスタコーヴィチの音楽は暗くてわけがわからなかったけれど
30代半ばくらいからその暗さ、緊張感が魅力に思えるようになってきた。
ここ二年くらい逆にその暗さ、緊張感がネックになって
ショスタコーヴィチの音楽からちょっと遠ざかっていたけれど
また、聴けるようになったというか、聴きたくなったというのは
きっといいことなのだと思いたい。