ケンのブログ

日々の雑感や日記

三月十五日

2018年03月15日 | 日記
大阪府立体育館に大相撲大阪場所五日目を見に行った。
去年はいろいろ事情があって大阪場所はいけなくて
今年は二年ぶりの大阪場所観戦になる。
二年ぶりと言う感慨がわいてくるかと思ったけれど
意外と冷静に観戦できたような気がする。
十二時半頃に府立体育館に到着。
三段目の取り組みの最中だった
場内アナウンスで藤佐藤という力士が岐阜県関市出身と
案内された。そうか岐阜県関市出身の力士がいるのかと思った。
遠藤が登場したとき場内に起きた拍手はとても暖かい
感じがした。勢や豪栄道の時はもちろんご当所力士ということで
大きな歓声があがる。
遠藤に向けられた拍手はそれよりも静かなものだったけれど
なんかとても深い暖かみがあるように感じられた。
拍手する人が遠藤のことをいとおしんでいるかのような。
遠藤は色白で美しい、しきりの所作もきれい
取り口は正攻法。そういうものに対する観客の
拍手であったような気がする。
あの拍手の暖かみだけは実際に場内にいなければわからない。
ちょっと拍手を聴いたとき涙が出そうになった。
遠藤と逸ノ城の相撲、まともに組んでしまったので
時間が長いわりには逸ノ城の一方的な勝利だった。
まあ、仕方がないと言えば仕方がないと思う。
豪栄道は僕は好きで応援している。
テレビで見ると当然当たりの角度とかタイミングとか
そういうものに目がいくけれど二階の椅子席で見ていても
そんなに細かいことは見えない。
ただ、豪栄道はすごい気迫で貴景勝をよりきったということはわかった。
この気迫のすごさは逆にテレビではわからない。
しきりの途中で貴景勝のからだがとても大きく見えたので
豪栄道大丈夫だろうかとドキドキしたけれど
相手になにもさせないうちに一気の気迫でよりきってしまった。
すごいなとおもう。
帰りになんばCITYの店で根付けを買った。
レジのしたにおいてある根付けを見ていると女の子が
僕がレジでお会計を待っていると勘違いしたらしく
僕の後ろにたっていた。
「僕、会計でならんでいるわけではありません。根付けを見ているだけです
お先にどうぞ」と僕は言った。
するとその女の子は「oh,im sorry」と言って先に会計を済ませた。
僕が会計をするときレジの子に
「あの子日本人やとおもったけれど、英語話してたから
ホンコンか台湾からきた子やね」と僕が言ったら
「そうですね」とレジの子、というか店員さんは言った。
PS相撲の仕切りを見ていると東西の力士が赤房と白房のしたに別れて
力水を受け塩をまくことがわかる。
紅白歌合戦とか紅白まんじゅうとか運動会で紅白に別れるのと
この赤房、白房に力士が別れるのはあるいはルーツが同じなのではなかろうか
と思った。ただそれだけの話だけれど、、、。


三月十四日

2018年03月14日 | 日記
本当にここのところ暖かい日が続いている。
昨日など夜になると寒くなるかなと思っていたけれど
結局夜も結構暖かかった。
今日もまた暖かくというより昼間はちょっと暑いくらいの陽気になっている。
なんだかこれだけ急に暖かくなるとねむくなってきそう。
自宅マンションのそばの桜が一輪、二輪と花を咲かせていた。
僕が確認できた開花した桜はその二輪だけだったけれど
二輪も咲けばあとが開花するのは早い。
また、川の土手に青いシートを敷いてお花見する人が出てくるなとおもう。

三月十三日

2018年03月13日 | 日記
今日は隣の町の市民交流センターで催された歌声サロンに参加した。
歌の先生は黒のセーターに黒のスラックス、それに麻でできたような
ネックレスをしておられた。
ピアノの先生はグリーンとブルーの中間色のスカートに
グレーのセーターだった。
花のメルヘンを歌う前にピアノの先生がおとをとっておられ
中間部の音階を何度も弾いておられた。
どうしたんだろうと思っていたらピアノの先生は
「ここの音階、別れても好きな人と一緒ですね」とおっしゃった。
そういえば別れても好きな人と中間部は一部同じになっている。
気づく方がすごいと思う。
歌の先生は途中でシューベルトのアベマリアを独唱してくださった。
こういうときはピアノの先生も原曲に忠実な伴奏を
してくださる。僕は絶対音感がないのでキーのことまではわからないけれど。
相対的に原曲に忠実なことは聴いていて間違いない。
伴奏も歌もうまいなと思う。
歌の先生の独唱が終わったあとみんなですみれの花咲く頃を
歌ったのだけれど、こちらの方はピアノの先生
ムード音楽のような伴奏をつけてくださる。
こんなにムードのある演奏をなさるのならホテルのラウンジで
ひっぱりだこになるのではないかとゲスの勘繰りをしてしまう。
あるときは原曲に忠実にあるときはムード音楽のように
いろいろ自由にできていいなとおもう。
予定していた全部の歌を歌い終わったあと
おもむろに服を着ていると歌の先生が
「この机、倉庫に運んでくださる?」とおっしゃった。
「はい、この重さなら一人で運べます」と僕は言った。
一人で運んでいると女性の方が手伝ったくださったので
「これなら一人で持てますよ」と僕がいったら
「じゃあ私は机につかまっときます」と女性はおっしゃった。
それやこれやしているうちに今日はさいごの後片付けを手伝うことに
なってしまった。おじいさんが十段くらいに重ねた椅子を
ひきずりながら運んでいるうちにその段が崩れて
僕の太もものところにどっと落ちてきた。
「大丈夫ですか」と女性が言った。
「はい、大丈夫です」と僕は言った。
太ももは肉があるのでまったくいたくない。
頭に当たったらいたいけれど。当たりどころがよかった。
その女性は歌の先生のお手伝いのリーダーのような方で
最後に「次回は私、休みますのでよろしくお願いします」とおっしゃった。
「はい」と僕は言った。

あれこれと思うこと

2018年03月12日 | 日記
先週の土曜日コンサートの帰りに大阪北のターミナルの本屋に行った。
ちょっと大学受験用の問題集に興味があったので見ていた。
なかなかこれと言ったものがなかった。
僕は大学受験用の教材を見ていてこれといったものがない場合は
予備校系の出版社のものを見ることにしている。
そうするとさすがは受験のプロが作った教材というものに出会える
可能性が経験則として高いと感じているからだ。
ところが、久しぶりに本屋の受験コーナーに行ったせいか
なかなか予備校系問題集が見つからない。
もうこれは自分で探すより本屋の店員の方に尋ねた方が早いと思った。
それて問い合わせカウンターに行った。
男性の若いスタッフがカウンターにはいらした。
学生のアルバイトのかたとおもわれるような感じだ。
僕はそのかたに「代ゼミ、河合塾、駿台、Z会など予備校系の教材を
探しています。特定の本を探しているわけではありません。
予備校系の教材がおいてあるコーナーはありますでしょうか」と言った。
店員の方は「学年は何年生でしょうか」とおっしゃった。
僕はここ何十年来予備校系の教材が分野別に編集されているのは
いくらでも見ているけれど学年別の予備校系の教材というのを
ほとんど見たことがない。
学年と言われてもどうしようと思いつつ
「学年と言うのは特にありません。強いて言えば受験用と言うことです」と言った。
店員の方は「受験と言いますと中学受験、高校受験、大学受験の
どれでしょうか」とおっしゃった。
代ゼミ、河合塾、駿台、Z会と四つも具体例をあげて
説明しているのに話が通じてないのだろうかと思いつつ
僕は「大学受験です」と言った。
店員の方は「少々お待ちください」とおっしゃってパソコンの端末を
操作して本のありそうな場所の記号をBー2とかいう感じで
メモしておられた。
そして、「ご案内いたします」と言って、僕を売り場の方に
案内してくださった。
所定の位置までくると店員の方は
「今、調べましたら見ていただいた通り受験用の教材は
教科別にこちらに並んでいます」とおっしゃった。
教科別の棚をさんざん探しても予備校系の教材が見つからないので
店員の方に尋ねたわけだけれど結局教科別の棚のところに
案内していただくことになった。
僕は「そうですか予備校系の教材のコーナーはないんですね」と言った。
「はい、教科別になります」と店員の方はおっしゃった。
そうか、ここ二年ほど本屋の受験コーナーに足を運んでいない間に
ターミナルの本屋でも予備校系の教材のコーナーはなくなってしまったんだな
時代は変わるものだなと思ってしばらく僕は茫然としてしまった。
しばらく茫然としながら教科別の棚をもう一度見たあと
180度後ろを振り返ったらそこには、駿台、河合塾、Z 会の
教材が会社別に並んでいた。 
なんだかほっとした。
何冊か手に取ってみて、やはり予備校系の教材は
長年にわたる予備校のノウハウが集約されているな。
ちょっと学習参考書系の出版社のものとはひと味違うなと思った。
結局、本屋のスタッフの方の案内は僕にとってとんちんかん以外の
何物でもなかった。
一昔前だったらターミナルの比較的規模の大きい書店の
問い合わせカウンターにこのようなスタッフは配置されないような気がする。
今は、書店のなかに本を検索するパソコンもおいてあるし
時代は人工知能に向かおうとしている。
それに折からの人手不足。結局こういうことにならざるを得ないのかなと思う。
しかし、これからの時代、ネットの検索機能など人工知能を
(検索機能も検索をする能力があると言う点では知能だと思う)受難の時代になるような
気がする。
たまに大学からいろんなあんないが届いても
申し込みはホームページのフォームからのような感じで
大学の卒業生ならネットは使いこなせてあたりまえというような
雰囲気が漂っている。
僕は最近ネットでの申し込み問い合わせなどのたぐいが
苦手なのでそういうのちょっと考え直してほしいなと思ってしまう。

大阪フィルハーモニー交響楽団第516回定期演奏会

2018年03月11日 | 音楽
昨日三月十日はフェスティバルホールに大阪フィルハーモニー交響楽団
第516回定期演奏会を聴きに行った。
指揮は井上道義さん。
最初に演奏されたのはバーバーのピアノ協奏曲作品38
ピアノ独奏はアレクサンデルガジェブさん。
第一楽章
ジャズの要素が感じられるピアノによる演奏の開始。
オケは鋭く雄大になる。やはり道義さんは
音楽のメリハリのつけかたがすごいなと思う。
中間部では現代音楽特有の混沌とした世界が展開される。
音楽には独特の不安感も漂っている。カデンツァもしかりだった。
楽章の後半緊張感のあるところ不安なところと音楽がすこし弛緩するところの
コントラストがよく出ていると思った。
コーダの盛り上がりもよかった。
第二楽章
すこしだけラヴェルのなき王女のためのパバーヌあるいは
ラベルの音楽全般を演奏を聴きながら連想した。
甘くゆったりとした音楽のなかにもそこはかとない不安が漂っている。
音楽が進むにつれてだんだん表情が濃く深くなってくる。
第三楽章
はやく鋭い音楽。やはりどことなくラベルの雰囲気が
あるような気がする。
ここでも音楽には不安が漂っている。
ところどころでそれが弛緩する。
そういうところの表現は道義さんうまいなと思う。
他の関西のオケを聴いていてたまに大阪フィルを聴くとうまいなと思う。
道義さんの指揮がすばらしいせいもあると思うけれど。
これと言ったコーダーっぽいものがなくフッと音楽が終わる。
よかった。
20分の休憩をはさんで次に演奏されたのがショスタコーヴィチの交響曲
第2番ロ長調作品14「十月革命に捧げる」
合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。
大太鼓の響きから不気味に音楽が始まる。
道義さんは最初は舞台のそでの客席からは見えないところからオケの
チューニングと思われるような音が聴こえてくる演出をされている。
ブラスの響きで音楽が高揚しまた沈む。
それから音楽は行進曲風になる。
怒りなのか闘志なのか不安なのか判別のつかない感情が音楽を支配する。
細かい音が弦や管からでてきてだんだん感情が高まっていくところは
一見混沌としているようで実は整然としている。
ショスタコーヴィチの音楽のレベルの高さに驚いてしまう。
出てくる旋律に音楽後半との兼ね合いなどでいろいろな伏線がはってあるところも
ちょっとすごいなと思う。
合唱が出てきても金管が光明を思わせるフレーズを吹いたりして
音楽の表情が多層に彩られる。
音楽が後半に進むと光明の要素の気配がだんだん濃くなってくる。
もちろんそこに不安の漂うフレーズも出てくるけれど
最後は音楽は光明のうちに終わるかのように聴こえる。
すばらしい演奏だった。

次に演奏されたのがショスタコーヴィチの交響曲第3番変ホ長調作品20「メーデー」
引き続き合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。
木管のメロディーで音楽が始まる。
ショスタコーヴィチ交響曲第7番第一楽章の
オスティナートクレッシェンドのところをちょっと連想する。
金管のすこしおどけたメロディーが出るけれど
おどけた雰囲気はまた緊張感に打ち消され
しかし、その緊張感の中にもおどけた要素もちりばめられている。
ショスタコーヴィチの音楽としか言いようのない展開。
かなりの持続性をもってそういう感情が音楽を支配する。
天才的としか表現できない音楽の展開。
ふと気づくと道義さんは指揮棒なしでオーケストラに細かいサインを
送っておられる。
音楽がかなり展開してくると光明と狂気の入り交じったような楽想も随所に出てくる。
かと思うと音楽は深く沈み、そこには少し平安への思いも漂う。
さらに音楽が進むと弦楽合奏で物思いに沈んだような表情が醸し出される。
その表情も切り刻むような音楽の展開でまた失われる。
オーケストラが様々な感情を表出したのち合唱が出てくる。
音楽は盛り上がるがそこに表れているものは光か怒りか不安か闘志か
判別がつかない。
最後は光明のうちに音楽が終わるようにみえるが最後のティンパニの連打は
必ずしも光明ではないところにさまざまな思いがよぎる。
余韻の残るすばらしい演奏だった。
ショスタコーヴィチの交響曲2番、3番は滅多に演奏されない曲だけれど
井上道義さんと大阪フィルハーモニーのおかげで
目の黒いうちにこの2曲の生演奏がきけてよかった。
2、3年前にショスタコーヴィチの交響曲第4番を聴く機会にも
恵まれたけれどあれも道義さんがとりあげてくださった
おかげだと思う。
道義さんがここ何年か大阪フィルハーモニーを頻繁に指揮され
ショスタコーヴィチの今まで聴いたことのない曲の
生演奏を聴くことができて本当によかった。
道義さんのショスタコーヴィチはどれも素晴らしかったと思う。