何日か前の 読売新聞に 発言小町と言って ネット上で 主に 女性が井戸端会議をするような サイトから 次のような トピックの引用が載っていた。
“”同じ賃貸住宅に住む高齢者女性(80代半ば、私からしたら母親世代)に、友達になってほしいと言うメモ(名前、電話番号記載)が玄関ポストに入ってました。
かれこれ6年以上前、たまに会うと挨拶、名前とどの階に住んでますと自己紹介され雑談はしていました。
ここ数年は会うこともありませんでしたが、最近再会しワクチン接種したと仰ってました。
引っ越しが多い人生でしたが、このようなことは初めてで戸惑っております“”と。
かれこれ6年以上前、たまに会うと挨拶、名前とどの階に住んでますと自己紹介され雑談はしていました。
ここ数年は会うこともありませんでしたが、最近再会しワクチン接種したと仰ってました。
引っ越しが多い人生でしたが、このようなことは初めてで戸惑っております“”と。
それで この トピックをネタに みんなで ネット上で井戸端会議をすることになる。
新聞にも その 抜粋が 載っていたし 僕も 実際に サイトを見てみた。
それこそ 井戸端会議なので いろんな 発言があって まとめることは むずかしいのだけれど 目につくものとしては 「いきなり 友達になってと言われるのは 心理的に重い」 「民生委員とかにまかせたらいいのでは」 とか 「立ち話以上の仲には なかなかなれない」 などの発言が多い。
本当に 僕も 人と 友達になるのが うまくないと思うので こういう 発言小町のトピックを見ると 身につまされる気持ちになる。
僕の 過去の記憶をたどると まだ それほど 仲良くなっていない人に 例えば 「よかったら 連絡ください」と言って 連絡先のメモを渡したりしても 連絡は 来ない場合の方が圧倒的に多かったと思う。
やっぱり 今の時代 家族も 核家族化して 地域の つながりも 少なくなり みんな それぞれの 生活を 営む ということになると いきなり友達になって と言われても 重いと感じてしまう人が多いのだと思う。
僕自身も きっと そうだと思う。
やっぱり 困りごとがあったら 自治体など 公的なところに 相談に行ってほしいと思う 気持ちは 僕も同じだ。
ただ、そう思う一方で なんでも 自治体や 専門家に まかせてしまう という傾向が 今の時代 強いのも やはり 世の中の しくみの システム化 という流れの一環なのだなと思う。
寂しいと言えば 寂しいことのように思う。
ただ、子供の時のころや 学生のころを 思い出せば 休み時間に 話したりしているうちに 気が合いそうだったら 今度の 日曜日 家に 遊びに行く と約束したり 学校帰りに 一緒に喫茶店に寄ったり 映画を一緒に見に行ったり 公園を散歩したり そんなことを 繰り返すうちに 一緒にいて 楽しかったら また行こう ということになって 気づいたら 毎日 学校帰りは 一緒だったり 気づくと 週に 一度は 一緒に喫茶店に行っていたり そんな風だったと思う。
それで いつも 一緒にいる人と 「俺たち友達だよな」 と意思を確認したような記憶もない。
そんな風だったと思う。
若いころに 戻ることは もうできないし 歳をとったら 学校も 会社も ないので 毎日 顔を合わせる人いなくなる。
けれど、文化サークルとか 運動サークルとか そんなものに顔を 出しているうちに 気の合う人が 出てくるかもしれないし。
やはり 若いころ どんなふうに 友達関係が形成されていったか そういうことを振り返ってみることが 大切であるような 気がする。
そんなことを 考えていたら 小椋佳さんの 「ただお前がいい」という歌のこんな 一節を思い出した。
「また会う約束など することもなく それじゃあまたな と別れる時の お前がいい」と。
本当に 友達に なってしまえば 「じゃあ また」と言えば それで すむようにも思う。
そういう 関係性を 具体的に 歌詞にしてしまう 小椋佳さんはすごいと思う。
そういえば 何日か前 田んぼの あぜ道を 中三くらいの女の子ひとりと 男の子二人が 自転車で走っているのをみかけた。
一般的に 考えると 女の子ひとりに 男の子二人だと 女の子が 危ないんじゃないかと なってしまうけれど その子たちの雰囲気は そんな風ではなかった。
危ないという 感じは 全然なかった。
そういうのって 僕も 田舎育ちだから なんとなく 感覚でわかる。
でも そうやって 女の子ひとりと 男の子二人で 自転車で 田んぼのあぜみちを 走ったことって 意外と 年取ってからも 覚えていたりして。
そういうものではないかと 思う。
それは ともかく 一日 いちにち 無事で過ごせるように それを 第一に願っていきたい。