ケンのブログ

日々の雑感や日記

悲しみは笑いにまさる 少年時代

2022年08月11日 | 日記歌入り
8月9日付の読売新聞のコラムはロシアの文豪 ドストエフスキーに言及している。

それを 一部引用する。

「前略
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』に立派な長老が亡くなる前、青年アリョーシャを諭す場面がある。

『悲しみがあればこそ幸福にもなれるだろう。お前に贈る私の言葉だ。悲しみの中に幸福を求めるのだ』。

実は文庫本で初めて目にしたとき、いささか抵抗を覚えた。悲しみに幸福を探すという理屈は矛盾しないか と思ってしまうのは やはり自分が極まった悲しみの体験者ではないからに違いない。今日は広島に続き、長崎に原爆が投下された日である 以下略」

新聞のコラムは ドストエフスキーを引用して 被爆の悲しい体験をどう受け継ぐかに未来の子供たちの幸福がかかっている という論旨を展開している。

ただ、僕は「悲しみがあればこそ幸福にもなれるだろう。お前に贈る私の言葉だ。悲しみの中に幸福を求めるのだ」というドストエフスキーの小説の言葉を読んで、旧約聖書の伝道の書を思い出した。

伝道の書には次のように書かれている。

「悲しみは笑いにまさる。顔に憂いを持つことによって心はよくなるからである。賢いものの心は悲しみの家にあり。愚かな者の心は楽しみの家にある」と。
(旧約聖書 伝道の書第7章より引用)

「悲しみがあればこそ 幸福にもなれるだろう」というドストエフスキーの小説の言葉は伝道の書の上記の言葉にどこか似ていると思う。

悲しみを避けようとするよりも むしろ そこに目を向けようとするのは きっと心のためによいことと僕は思う。

先日 知床観光船でなくなられた方の遺体がロシアからなかなか 戻ってこない という報道に触れた。

そのときも 死体 ということに 関連して 僕は ロシアの作家 ドストエフスキーの 「しいたげられた人々」という小説の次のような箇所を思い出した。

小説に出てくる老人の愛犬 アゾルカが喫茶店の暖炉のそばで 気づいたら 知らぬ間に死んでいた場面を描いた箇所だ。

そこには 次のように書かれている。

「老人はぎくりとして、アゾルカがすでに死んでしまったことを理解できないように、少しのあいだ犬を見つめた。

それから かつて忠僕であり友人であったものに静かに体をかがめ、その死んだ鼻面に自分の蒼ざめた顔を押しあてた。

一瞬の沈黙が流れた。私たちはみんな感動していた……。やがて哀れな老人は体を起した。顔はひどく蒼白く、全身は熱病の発作のように震えていた。

『あくせえ作ればいい』と、思いやりの深いミュラーがなんとかして老人を慰めようと口を開いた。(あくせえとは剥製(はくせい)のことだった)」と。
ドストエフスキー 「しいたげられた人々」新潮文庫より 引用

僕は ここを読んだとき アゾルカの剥製(はくせい)を作ったところで アゾルカの生命がよみがえるわけではない 剥製は 死体で そこに生命はないから と思った。

しかし、ミュラーが老人を慰めようとして 剥製(はくせい)を作ればいい と言ったことはこの箇所を読むと 痛いほどわかる。

そこに なんともいえない やりきれなさ そして 感動がある。

感動を幸福と置き換えれば アゾルカという老人の愛犬が死んでしまう シーンは まさに 「悲しみがあればこそ幸福にもなれるだろう」という「カラマーゾフの兄弟」に出てくる長老の言葉を具現しているのではないだろうか。

僕は そのように思う。

ことあるごとに ドストエフスキーの小説の言葉を思い出す人がいる。

やはり 偉大な作家なのだなと思う。

ロシアがウクライナに侵攻していても ドストエフスキーの言葉や ショスタコーヴィチの音楽は心の中に大切に持っていたいとは思う。

それは ともかく いちにち いちにち 無事でありますように それを 第一に願っていきたい。

■少年時代
井上陽水さんの「少年時代」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップロードします。

聴いていただければ幸いです。

八月になると僕が決まって思い出す歌です。

ある年の8月には 少年時代を 一度は 聴かなければと思いながら 仕事に追われてなかなか聞く余裕がなく 8月31日に ようやく聴いたことがありました。

ちなみに井上陽水さんの誕生日は8月30日です。

僕の母は 割と 歯に衣着せない ものの言い方をすることが多くて 先日 たまたま
「井上陽水って あの歌声からは信じられないくらい おっさんの顔になってしまったね」と言っていたので ネットで画像検索すると 確かに そういわれれば そうかも と思ってしまいました。

でも 歌は 顔じゃないよ 陽水さんが おっさんの顔になっても 少年時代 という 歌の魅力は いささかも 失われるものではないと 僕は 信じています。

そういえば 少年時代が 流行ったのと 同じくらいの時代に 「私がおばさんになっても」とミニスカートをはいて 歌っていた 女性も いましたっけ。

そんな 気がします。


↓ 井上陽水さんの「少年時代」をカラオケDAMの音源で歌いました。