丁度、夕方の通勤ラッシュの時刻にJRの幹線を走る電車に乗った。
車内はかなり混雑していた。通勤帰りの人が多い。同じ会社の人同士連れ立って帰る人も何人かいたけれど、だれも話をしない。やはり、今はそういうときなんだなと思う。コロナでないときだったら同じ会社の人同士電車に乗ればその日の会社での出来事など話しているのが普通だから。
新聞の編集手帳に目を通すとミャンマーの軍のクーデターとアウンサンスーチーさんに関して次のようなことが書いてある。
「近年のスーチーさんはイスラム系住民ロビンギャへの迫害を止めなかったことで国際社会の非難を浴びた。ノーベル平和賞を返上せよとも声まであった。だが、もしスーチーさんが軍べったりであれば、クーデターなど起こるまい。当欄でもロビンギャ問題を攻め立てたことがあるが、今になって思えば、複雑な暗部が見えていなかったかも知れない」と。
新聞はどの新聞でもそれぞれの論調というのがあるので、きっとこの編集手帳を書いた記者の方もスーチーさんのことを攻め立てたときも、新聞の論調の観点からそうしたような気がする。
新聞記者もその新聞社の社員だから、自分の好きなことだけを書けるわけではない。
記者の人もスーチーさんが軍べったりでないことはきっと前から気づいていたように僕には思える。
僕自身もスーチーさんがたとえ軍の擁護をしているとみんなから非難されても、国際司法裁判所の法廷にたったときに、その法廷に逃げずに立ったということに意味があるような気がした。
本当にスーチーさんの歩みをいろんな報道で見ていると、こんな苦難の人生があるのだろうかと思ってしまうけれど、スーチーさんに対する本当の評価が定まるのはまだこれから何年も経ってからのことになるのだと思う。
そのときはしんどくても、次の時代にのぞみをつないで生きるということはなかなかできることではないように思う。
僕は心の中でひそかにスーチーさんが次の時代にのぞみを託して生きておられることを期待しているのだけれど。
とは言ってもスーチーさんの心の中はスーチーさんにしかわからないことだけれど、、、。
時短営業に応じなかったお店に罰則を課すという新聞の記事に、実際に罰則を課すと言っても、そこまでにはかなりの手順を踏まなければならない。保健所などの役所も、そこまで手順を踏む余裕はないから、罰則が実際に課されることはまずないだろうというようなことが書いてある。
でも、やはり罰則が実際に課されるかどうかはともかくとしても、それが存在するというのはやはり重みのあることだなと思う。
正直な僕の気持ちを書くと、やはりちょっと気持ちが暗くなってしまう。
新聞の社会面に目を通すと、コロナが騒がれだしてから一年が経過するということでクルーズ船「ダイヤモンドプリンセス」のイタリア人船長ジェンナロ アルマさんに取材した記事が出ている。
おもえば、この「ダイヤモンドプリンセス」でコロナの集団感染が起きたことが日本でのコロナ騒動の発端だった。
この船の中で船長は約一ヶ月の隔離生活を体験された。
記事の中に船長のジェンナロ アルマさんについてのこのような一節がある
「(アルマさんは)隔離中の一ヶ月について『私のキャリアの中で最も困難な日々だったが、最もやりがいがあった』と振り返る。その支えとなったのが、乗客から連日届いた乗員に対する感謝の手紙だった。詳細な内容には触れなかったが、『私が今までに読んだ最高に美しいメッセージで、感動的な瞬間だった』と感謝の思いを寄せた」と。
感謝のメッセージを「最高に美しいメッセージ」と表現するのはいかにもルネッサンス発祥の国イタリア人らしくて、エレガントだなと思う。
記事は最後に
(ジェンナロ アルマさん)は「Good night Diamond Prinsess」全員の下船が完了した3月1日の夜には、船内アナウンスでそう告げたあと、船長服の「正装」で最後に船を降りたという。 と結ばれている。
こういうなにかの節とか区切りのときに正装をして襟を正すという姿勢も私達には大切なことなのかも知れない。
ろくに正装などしたことのない僕が言っても説得力がないようにも思うけれど。
ちなみにこの記事を書いたのは女性の記者だけれど、アルマ船長に対してかなり好意的な記事になっている。
やっぱりイタリア人は女性にモテていいな、とついひがみ根性も頭を持ち上げてしまう、、、。