ケンのブログ

日々の雑感や日記

祈りを考え直すよい機会

2021年02月01日 | 日記

僕が読んでいる新聞に「合格祈願」というコラムがあって次のように書いてある。

“”新型コロナは「最後の神頼み」にも影響を与えているようだ。
日用品大手のライオンが昨年11月、受験予定の高校3年生に調査したところ。合格祈願に行きたいのに、感染が心配でためらっている人が6割もいた。

学問の神様として知られる〇〇文殊院はそんな受験生らを応援しようと自宅から合格祈願できる仕組みを整えた。スマートフォンで申し込みさえすれば住職らが寺で祈祷し、御札やお守りを郵送で届けてくれる。

料金の支払いも自宅でできるようクレジットカードでできるようにした。“”と。

こういう書き方をするのは不謹慎かも知れないけれど、“”新型コロナは「最後の神頼み」にも影響を与えているようだ。“”という記事の文章の書き出しを読むと、この記事を書いた人は、受験で神社にお参りに行ったりすることをちょっと見下げておられるような雰囲気がどことなく伝わってきて、そういうのってちょっと鼻につくなと感じる。

新聞のコラムを書くような立場の人はきっと神頼みなどをしなくても受験に成功している可能性も高いだろうし、、、。

もし、僕にこの記事の添削をすることを許されるのなら、“”「最後の神頼み」にも影響を与えているようだ“” という部分は “”「最後の合格祈願」にも影響を与えているようだ。“”と書き改めると思う、、、。

まあ、それはともかく本当にお寺や神社もコロナの影響は色々及んでいるんだなと思う。

オンラインでの祈祷を申し込まれた方も、それで少しでも心が落ち着くのならそれはそれで一つの祈りの方法なのだろうと思う。

しかし、いろいろと祈りの方法や祈りに対する意識というのは変わりつつあるなとは思う。

祈りって何だろうと考えたとき、新約聖書のこんな記述を思い出した。

“”祈るときは異邦人のようにくどくどど述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らの真似をしていけない。あなたがたの父は願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だからこう祈りなさい“”
※マタイによる福音書第6章に出てくるイエスの言葉。

だからこう祈りなさいという言葉に続いて、「天にまします我らの父よ」で始まる有名な主の祈りが出てくる。

そして主の祈りの中で祈られることは

“神の名前をあがめさせてください。

神の国が来ますように。

神の心が天になされるように地でもなされますように。

私達の日毎の糧を今日もお与えください。

私達の負い目をお許しください。私達も自分に負い目のある人を許しましたように。

私達を試みにあわせず悪よりお救いください。“”

ということだ。

これだけの祈りの事項がある中で、神の国が来ますようにとか、そういうスピリチュアルな領域に属することを除いた、この世的な願い事というのは。

私達の日毎の糧を今日もお与えください。ということと
私達が互いに許しあえますように。というたった2つしかないことに気づく。

つまり、ごく簡単に主の祈りを導いたイエスの言葉を要約すれば

神は、私達に必要なことは私達が願う前からすでにご存知だから
日用の糧を得て、日々の生活が成り立つことと、互いに許し合うことだけを祈ればそれで十分。ということになる。

それだけを祈れば、あとは神におまかせしておけばよいと。究極的にはイエスはそう語っていることになる。

こうなるともう新聞のコラムに書いてあるように「神頼み」という考えではなく「神任せ」という考えのほうがイエスの考えにははるかに近いことがわかる。

「神頼み」という道を選ぶか「神任せ」という道を選ぶか。

それは二者択一クイズのように簡単に答えを選べるものではないと思う。

月並みな言い方になるけれど、「神頼み」という考え方と「神任せ」という考え方の両方をバランス良く取り入れていくことが心の平安のためには一番よいのだと僕は思う。

僕の場合は、いろいろ願い事などを祈りつつも、最後は「神任せ」でいければそれが一番よいと考えている。

ただ、「神頼み」という考え方ばかりが支配的になってしまうと、なんだか神様というのは人間がピンチのときに助けてくれる、人間のためのお助けマン、のようになってしまって、人の心から神仏を敬うという気持ちがなくなっていってしまうように思えてくる。

そして、人は皆、神の氏子であるとすれば、神仏を敬う気持ちがなくなるということは、また同時に人を敬うという気持ちもなくなってしまうことに繋がり、そうであるとすればこれは怖いことだなと思えてくる。

こういうコロナというときにあって祈りもオンラインでというニュースが出てくるのは人と神仏との関係、祈りというもののあり方を私達が考え直すよい機会であるようにも思う。