ケンのブログ

日々の雑感や日記

土曜日に思うこと

2021年02月20日 | 日記
朝、と言ってももうお昼に近いくらいの時間に隣のマンションの敷地を通って、私鉄の最寄りの駅まで歩いていった。

隣のマンションの敷地では、水道からホースを引っ張ってきて自動車を洗っている人、つまり洗車をしている人が2人いた。

いつも、思うのだけれど、自分でホースを引っ張ってきて自動車を洗うような人の自動車って、本当に頭のてっぺんからつま先まできれいだなと思う。

別に自動車に頭やつま先があるわけではないけれど、例えて言えばそんな感じに見える。

やはり自動車のような機械と言うか道具でも持ち主に大切にされているものは光り方が違うのだと思う。

村上春樹さんの小説の登場人物に、くよくよ心が悩み始めたときは、掃除に打ち込むというような人物がでてきていたような記憶がある。

どの小説のどの場面かは忘れてしまったけれど。

それを読んだとき、僕はとても大切なことを読んだような気がする。

掃除でも洗車でも、そういう比較的簡単なことで、ものを相手に打ち込めるような作業をすることは心のためにいいように僕も思う。

岐阜の八王源先生が、仕事は、人相手が一番難しい、モノ相手はまだそれに比べると楽、と言っておられたことをしみじみと思い出す。

最近、人なんて、どうせ自分の思う通りにはならないんやから、そんなことで悩むのは損、自分が変えたほうが手っ取り早い という主旨のことを言う人を少なからずみかけるようになったような気がする。

それは、まさにそのとおりだと僕は思うのだけれど、なんかそういう表現の仕方が、言葉の有様として投げやりなように思う。

投げやりな言葉を使っていると心も投げやりにしまうのではないだろうか。

ブッダは僕が上に記したのと同じような内容のことを次のような言葉で語っている。

「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ、自分のしたことと、しなかったことだけを見よ」と。

こういう言い方なら、同じようなことを語っていても「人なんて自分の思う通りにはならないから 云々」というよりもはるかに中立的で謙虚な言い方であるように僕には思える。

僕もこういう言葉を、励みにして心を慰めたりすることはしばしばある。

とは言っても、やっぱり乱暴な言葉遣いをする人を見たり、乱暴な行為をされたりするとついカーっとなってしまうこともあるけれど、、、。

しかし、そんなとき、こういうブッダの言葉を読んでいるとカーっとした気持ちから立ち直るきっかけには十分なると思う。

昨日ちょっと僕のブログに真夏の果実の思い出を書いた。

そうすると思い出というのは連鎖するもので
桑田佳祐さんの「祭りのあと」という歌を思い出した。

この「祭りのあと」という歌に僕がハマったのは、自分が仕事で伸び悩んで、ちょっとした劣等感を覚えていたときだった。

そんなときにこの歌の

“”情けない男でごめんよ 愚にもつかない俺だけど“”
“”悪さしながら男なら 粋でやさしい馬鹿でいろ“”
という下りはとても心の救いになった。

そうか、桑田佳祐さんほどの人でも“”情けない男でごめんよ“”と書くような気持ちが心のどこかにあるのか、そして“”悪さしながら 男なら 粋で優しい馬鹿でいろ“”という気持ちがあるのかと思うととても心の救いになった。

少なくとも利口になるよりは優しい馬鹿でいるほうがたやすいはずだとその頃の僕はなんとなく桑田さんの歌を聴いて思った。

そして、それがその当時の僕には大きな救いと勇気だったように思う。

そして、今では、たとえ情けない男であっても、それを、ごめんよ と思えたり、言えたりすることは意外と大切なことなのだと思う。

どんなに栄華をきわめた男でも、歳をとればだんだん情けなくなっていくわけだし。

ひところ、夜、会社から帰ってきてから、この歌をウォークマンに入れて連続再生しながら、近所の公園まで散歩に行っていたことを本当に懐かしく思い出す。

もうあの頃から数えても四半世紀の時が流れたのかと思う。

2日くらい前から、日が暮れて間もない時刻に、月が天空の高いところにあることに気づいていた。

今日、スーパーマーケットで日暮れに買い物をして外に出ると、本当に、天空のまさに、ど真ん中に半月が出ていた。

そういう月を見るのもいいものだなと思う。

一日、一日無事に過ぎますようにという気持ちで過ごしている。