メモとして。
淡徳三郎(だん・とくさぶろう1901-1977年)、別名・馬込健之助。
明治34年8月15日生
評論家、社会運動家
日本北アフリカ協会事務局長
京大卒。京都学連事件被告。
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一五日午前三時、京都市内の全刑事が川端、中立売署に召集され、六時活動を開始した。七時半までに京大社研の淡徳三郎(大学院)、岩田義道(経三)、石田英一郎、熊谷孝雄(経二)、栗原佑、太田遼一郎、泉隆、白谷忠三、黒田久太(経一)、山崎雄次(法三)、橋本省三(法二)の一二名と同志社社研内海洋一(経一)、大浦梅夫(高商三)の合計一四名を検挙し、同時に京大教授河上肇、同志社大講師河野密、山本宣治の私宅、農民組合事務所、京都地方評議会事務所をはじめ評議会の国領伍一郎、辻井民之助、半谷玉三、奥村甚之助、谷口善太郎、農民組合の森英吉、京大助手(新人会員)杉野忠夫などの私宅が一斉に家宅捜索をうけた。兵庫県でも関西学院大教授河上丈太郎、松沢兼人、新明正道などの私宅など十数ヵ所が家宅捜索をうけた。同じ一五日東京では村尾薩男(東大文三)、清水平九郎(明治学院)、広谷賀真(慶応)が検挙され、一八日には京都で鈴木安蔵(京大経一)が追加された。そして不敬罪にもとわれている石田を除く一七名は一月二六日出版法違反ならびに治安維持法違反で起訴、予審に付せられた。
しかし検挙はこれで終らず一月二七日午後から第二次検挙が開始され、同日夕刻までに京大社研逸見重雄(経三)、鷲谷武二(文二)、古賀二雄(法一)、藤井米三(経卒)、同志社社研宮崎菊二、沢田政雄(経一)のほか小崎正潔(関西学院)、蓬台恒治(神戸高商)の八名、翌二八日には黒川健三、原田耕(大阪外語)の二名が検挙された。その後検挙は四月中旬まで続き、その間に京都社研では武藤丸楠(経一)、池田隆(医二)、大橋積(経卒)、東大新人会では是枝恭二(文二)、松本篤一(文二)、後藤寿夫(法三)、その他に実川清文(日本大)、秋笹政之輔(早稲田高等学院)、野呂栄太郎(慶応卒)、上村正夫(京都無産者教育協会書記)が検挙された。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」 P.87
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3.15事件で検挙、後フランスに亡命
淡徳三郎は1935年に逮捕・起訴を逃れて日本からフランスに渡った。
しかし1940年、パリでドイツ軍につかまり、5年間ベルリンで抑留された。
1945年、ソ連当局はこの古参党員を解放し、シベリア経由で満州に送った。
彼は……日本にかえるの辞めて日本人抑留者とともに中央アジアのカラガンダヘ行った。
彼はそこでマルクス・レーニン主義教育計画の教師になった」
ウイリアム・F・ニンモ著、加藤訳『検証―シベリア抑留』時事通信社 1991年 p117
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日本語新聞『ベルリン週報』が、ドイツ共産党機関紙『ローテ・ファーネ』の周辺で、ある種の役割を果たしていたことが示唆されていた。1935年に、彫刻家高田博厚が淡徳三郎と共に創刊・編集するパリの日本語新聞『日仏通信』への繋がりも、あった。
ソ連抑留生活を経て帰国、戦後法政大学教員。
アルジジェリア解放運動にも参加した。
FLN東京事務所の2代目代表アブデルマレク・ベンハビレス氏は、1962年のアルジェリアの独立とともに初代駐日大使として赴任。長年アルジェリアとの連帯運動の推進役であった同協会事務局長淡徳三郎氏が1977年死去した際、アルジェリア最大の雑誌「アルムジャーヒド」は「アルジェリアの友の死」と題する追悼社説を掲げた。
著書訳書多数
<著書>
クラウゼヴィッツ研究家。戦前のクラウゼヴィッツ翻訳が評価される。
『ヴェトナム』『社会思想入門』『平和の理論』『ド・ゴール』『アルジェリア革命』etc
<訳書>
ロジェガロディ『自由』
クロポトキン『フランス革命史』
サルトル『ネクラソフ』
淡 徳三郎追悼録, 追悼録刊行会あり。
淡徳三郎(だん・とくさぶろう1901-1977年)、別名・馬込健之助。
明治34年8月15日生
評論家、社会運動家
日本北アフリカ協会事務局長
京大卒。京都学連事件被告。
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一五日午前三時、京都市内の全刑事が川端、中立売署に召集され、六時活動を開始した。七時半までに京大社研の淡徳三郎(大学院)、岩田義道(経三)、石田英一郎、熊谷孝雄(経二)、栗原佑、太田遼一郎、泉隆、白谷忠三、黒田久太(経一)、山崎雄次(法三)、橋本省三(法二)の一二名と同志社社研内海洋一(経一)、大浦梅夫(高商三)の合計一四名を検挙し、同時に京大教授河上肇、同志社大講師河野密、山本宣治の私宅、農民組合事務所、京都地方評議会事務所をはじめ評議会の国領伍一郎、辻井民之助、半谷玉三、奥村甚之助、谷口善太郎、農民組合の森英吉、京大助手(新人会員)杉野忠夫などの私宅が一斉に家宅捜索をうけた。兵庫県でも関西学院大教授河上丈太郎、松沢兼人、新明正道などの私宅など十数ヵ所が家宅捜索をうけた。同じ一五日東京では村尾薩男(東大文三)、清水平九郎(明治学院)、広谷賀真(慶応)が検挙され、一八日には京都で鈴木安蔵(京大経一)が追加された。そして不敬罪にもとわれている石田を除く一七名は一月二六日出版法違反ならびに治安維持法違反で起訴、予審に付せられた。
しかし検挙はこれで終らず一月二七日午後から第二次検挙が開始され、同日夕刻までに京大社研逸見重雄(経三)、鷲谷武二(文二)、古賀二雄(法一)、藤井米三(経卒)、同志社社研宮崎菊二、沢田政雄(経一)のほか小崎正潔(関西学院)、蓬台恒治(神戸高商)の八名、翌二八日には黒川健三、原田耕(大阪外語)の二名が検挙された。その後検挙は四月中旬まで続き、その間に京都社研では武藤丸楠(経一)、池田隆(医二)、大橋積(経卒)、東大新人会では是枝恭二(文二)、松本篤一(文二)、後藤寿夫(法三)、その他に実川清文(日本大)、秋笹政之輔(早稲田高等学院)、野呂栄太郎(慶応卒)、上村正夫(京都無産者教育協会書記)が検挙された。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」 P.87
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3.15事件で検挙、後フランスに亡命
淡徳三郎は1935年に逮捕・起訴を逃れて日本からフランスに渡った。
しかし1940年、パリでドイツ軍につかまり、5年間ベルリンで抑留された。
1945年、ソ連当局はこの古参党員を解放し、シベリア経由で満州に送った。
彼は……日本にかえるの辞めて日本人抑留者とともに中央アジアのカラガンダヘ行った。
彼はそこでマルクス・レーニン主義教育計画の教師になった」
ウイリアム・F・ニンモ著、加藤訳『検証―シベリア抑留』時事通信社 1991年 p117
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日本語新聞『ベルリン週報』が、ドイツ共産党機関紙『ローテ・ファーネ』の周辺で、ある種の役割を果たしていたことが示唆されていた。1935年に、彫刻家高田博厚が淡徳三郎と共に創刊・編集するパリの日本語新聞『日仏通信』への繋がりも、あった。
ソ連抑留生活を経て帰国、戦後法政大学教員。
アルジジェリア解放運動にも参加した。
FLN東京事務所の2代目代表アブデルマレク・ベンハビレス氏は、1962年のアルジェリアの独立とともに初代駐日大使として赴任。長年アルジェリアとの連帯運動の推進役であった同協会事務局長淡徳三郎氏が1977年死去した際、アルジェリア最大の雑誌「アルムジャーヒド」は「アルジェリアの友の死」と題する追悼社説を掲げた。
著書訳書多数
<著書>
クラウゼヴィッツ研究家。戦前のクラウゼヴィッツ翻訳が評価される。
『ヴェトナム』『社会思想入門』『平和の理論』『ド・ゴール』『アルジェリア革命』etc
<訳書>
ロジェガロディ『自由』
クロポトキン『フランス革命史』
サルトル『ネクラソフ』
淡 徳三郎追悼録, 追悼録刊行会あり。
教えて下さってありがとうございました。
『改造』1932.9にあたってみたいと思います。
林のふーちゃんの『青年』に前々から取りかかっていますが、一度お休みしてまた読み始めると、頭が『青年』モードになるまで時間がかかってしまいます。これは一気に読むしかないですね。
読み終わったらすぐに、多喜二の「右翼的偏向の諸問題」のなかの「五、同志林房雄の「青年」について」を読んでみたいです
私も遅れないように頑張りま~す。
書誌情報 和図書(43/73件目)
請求記号 915.9-D24t-a
タイトル 抵抗 : レジスタンス
責任表示 淡徳三郎著
出版地 東京
出版者 青木書店∥アオキ ショテン
出版年 1952
形態 228p ; 15cm
シリーズ名 青木文庫 ; 第68
全国書誌番号 52008261
個人著者標目 淡, 徳三郎 (1901-) ∥ダン,トクサブロウ
NDC(6) 915.9
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000000891228
Parmi les hommes qui ont entrepris des activités de soutien et de solidarité à la cause des luttes pour l’indépendence des pays de l’Asie et de l’Afrique, je pourrais citer des hommes politiques comme Messieurs Tokutaro Kitamura, Tokuma Utsunomiya et Tokusaburo Dan, ce dernier ayant été le secrétaire général du Comité de Solidarité pour l’Asie et l’Afrique.
日本文
http://www.japan-algeria-center.jp/news/jp/news20050601_jp.html
アジア・アフリカ独立闘争に共鳴して日本で支援活動を繰り広げた人々を挙げるとすれば、政治家の北村徳三郎、宇都宮徳馬両氏や、アジア・アフリカ連帯委員会事務局長だった淡徳三郎氏の名前がまず浮かんできます。
つまりは、いま多喜二の晩年の評論の意味を語るには、淡徳三郎の全生涯を知ることが必要であり、淡徳三郎自身が多喜二の批判をどう受け止めたか、実践したかを検討していいということだと思います。
「その後検挙は四月中旬まで続き、その間に京都社研では武藤丸楠(経一)、池田隆(医二)、大橋積(経卒)、東大新人会では是枝恭二(文二)、松本篤一(文二)、後藤寿夫(法三)、その他に実川清文(日本大)、秋笹政之輔(早稲田高等学院)、野呂栄太郎(慶応卒)、上村正夫(京都無産者教育協会書記)が検挙された。」という部分の中の「後藤寿夫」とは「林房雄」のことです。めいさんが書いていた「青年」との関係で、メモ。
林 房雄(はやし ふさお、明治36年(1903年)5月30日 - 昭和50年(1975年)10月9日)は、日本の小説家、文芸評論家。大分県出身。本名は後藤寿夫(ごとう としお)。(Wikipedia)
佐藤さんが書かれている「多喜二の批判をどう受け止めたか、実践したかを検討」すべきということは、淡徳三郎ばかりでなく、同時代を生きたその他の「青年」たちにも当てはまるのではないでしょうか。
島村先生、ありがとうございます♪
林房雄は、是枝恭二や、野呂栄太郎など、のちのバリバリの活動家とともに検挙されていたのですね。
興味深いことです。